アル・クーパー
アル・クーパー(Al Kooper、1944年2月5日 - )は、アメリカの作曲家・ミュージシャン・プロデューサーである。本名はアラン・ピーター・クーパーシュミット (Alan Peter Kuperschmidt)。ボブ・ディランとの共演やブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ結成を経て、1969年からソロとしても活動する。 来歴ニューヨークブルックリン区のユダヤ人の一家に生まれ[1]、クイーンズ区ホリス・ヒルズで育つ[2]。独学でピアノやギターを弾き、1959年、ロイヤル・ティーンズにギタリストとして加入してプロデビューした[1]。
ソングライターとして活動するうち、1月にボブ・ブラス及びアーウィン・レヴィンと共作した「恋のダイアモンド・リング」がゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズのデビュー曲に起用される。同曲は同年2月に全米1位[1]となる。ジーン・ピットニーのために「I Must Be Seeing Things」を書いた。 6月15日にボブ・ディランがアルバム『追憶のハイウェイ 61』のレコーディングを開始する。クーパーは見学のためにスタジオに入りマイク・ブルームフィールドと出会う[3][4]。6月16日に「ライク・ア・ローリング・ストーン」録音の際、即興でオルガンの演奏を提案し、飛び入りでセッションに参加した[4]。 1965年後半にブルース・プロジェクトのオーディションに参加してグループに加入する。1966年3月発表のデビュー・アルバム『Live at The Cafe Au Go Go』でオルガンを弾き、「I Want to Be Your Driver」でリード・ボーカルを担当した。
1月から3月にかけてボブ・ディランのアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』のレコーディングに参加する。ほかにピーター・ポール&マリーの『The Peter, Paul and Mary Album』[5]、トム・ラッシュの『Take a Little Walk with Me』[6]などのレコーディングにも参加した。 6月発売のコンピレーション・アルバム『What's Shakin'』で自作曲「Can't Keep From Crying Sometimes」を発表する。
6月16日から18日にかけて野外コンサート「モントレー・ポップ・フェスティバル」が開催され、クーパーは17日昼の部に単独で出演した。秋にブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ(BST)を結成する。
1968年初頭にモビー・グレープのジャム・セッションにマイク・ブルームフィールドとともに参加する。クーパーは「Black Currant Jam」で、ブルームフィールドは「Marmalade」でピアノを弾いた。アルバム『Wow/Grape Jam』は4月に発売される[7]。 2月21日にBSTのファースト・アルバム『子供は人類の父である』が発売される。3月にBSTを脱退[8]。 4月15日にニューヨークのジェネレーション・クラブで、ジミ・ヘンドリックス、B.B.キング、ポール・バターフィールド、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのエルヴィン・ビショップとフィリップ・ウィルソン(ドラムズ)、バジー・フェイトン(ベース)、クーパー(オルガン)らはジャム・セッションした。「ライク・ア・ローリング・ストーン」も取り上げられ、クーパーはオリジナルと同様にオルガンを弾いた[9]。この演奏はいくつかの非公式CDに収載されている[10]。 7月22日にマイク・ブルームフィールド、クーパー、スティーヴン・スティルス3人の名義でアルバム『スーパー・セッション』を発表する。 8月23日にロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行われたサイモン&ガーファンクルのコンサートで、録音エンジニアを務める。この音源もいくつかの海賊盤に収載されている[11]。 9月26日から27日にかけてサンフランシスコのフィルモア・ウェストでブルームフィールドと共演する。9月28日は出演不可能となったブルームフィールドの代役としてエルヴィン・ビショップ、カルロス・サンタナらがクーパーのコンサートに参加した。1968年にローリング・ストーンズの「無情の世界」、バターフィールド・ブルース・バンドの『In My Own Dream』、ジミ・ヘンドリックスの「長く暑い夏の夜」などのレコーディングに参加する。
前年にブルームフィールドと共演としたライブにオーバーダビングを施し、2枚組のアルバム『フィルモアの奇蹟』として発表。 2月、初のソロ・アルバム『アイ・スタンド・アローン』をリリースし全米54位[12]となる。9月発売のジャニス・イアンのアルバム『愛のためらい (Who Really Cares )』にオルガンで参加[13]する。
1972年にアトランタ市へ移住[3]し、1972年9月にジョン・プライン「サム・ストーン」のカバー・バージョンをシングルとして発表[14]する。1972年12月にアルバム『赤心の歌』を発表する。アルバムに収録された「ジョリー」は日本で格別に愛聴された[15]。1972年にMCAレコードのサブ・レーベル「サウンズ・オブ・ザ・サウス」を設立し、レーナード・スキナードを世に出してサザン・ロック・ブームの一翼を担う。 1980年代以降は寡作となるが、2003年に初めて日本で公演し、2005年7月に11年ぶりの新作『ブラック・コーヒー』を発表した[16]。 2016年12月10日放送の「NHKスペシャル ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉」で「ディランをよく知るミュージシャン」として取材を受ける。 ディスコグラフィアルバム
コラボレーション・アルバム
来日公演
関連項目脚注
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