イバン・サモラーノ
イバン・ルイス・サモラーノ・サモラ(Iván Luis Zamorano Zamora、1967年1月18日 - )は、チリ・サンティアゴ県サンティアゴ出身の元サッカー選手、現サッカー解説者。ポジションはフォワード。元チリ代表。 空中戦に強かった事から、「ヘリコプター」の異名を持つ。 来歴地元のクラブチーム、CDコブレサルでデビュー。1987年には、カップ戦も制して名を挙げた[1]。その後1988年には同じチリの、ウーゴ・ルビオと共にボローニャの入団テストを受けたが、ルビオのみ契約を勝ち取った[1]。そこでスイスのFCザンクト・ガレンへ移籍して、23得点を挙げて得点王になるなど、頭角を現した[1]。翌年セビージャFCへ移籍。1990-91シーズン、第2節のレアル・マドリード戦で移籍後初ゴールを決めた。2シーズンで、61試合で37得点を決めるなど、ここでも得点能力の高さを証明し、1992-1993シーズンには500万ドルでレアル・マドリードへ移籍を果たす[1]。 レアル・マドリードに所属した4年間でリーグ戦137試合に出場し、77得点を記録。リーグ、カップ、スーパーカップを獲得した。移籍初年度の1992-93シーズン、第34節のセヴィージャ戦でのハットトリックなど[2]26得点を挙げた。1993-94シーズンのスーパーカップ、バルセロナ戦では1stレグ、2ndレグで共に1ゴールを挙げて[2]優勝に貢献した。1994-1995シーズン、最終的に28得点を挙げて得点王に輝くなど[3]、ラウドルップと並びリーグ制覇に最も大きな役割を果たした[4]。同シーズン、第16節のFCバルセロナとのクラシコではハットトリックの活躍で[5]ライバルからの勝利に大きく貢献した。 1996-1997シーズンにはセリエA・インテルへ移籍、リーグ7節のパルマ戦で移籍後初得点と2点目を決めた。1997-98シーズンのUEFAカップ決勝では、ラツィオ相手に決勝ゴールを決めて、優勝に貢献した[1]。インテルではそれ程多くの得点を奪えなかったが、常に全力でプレーするプレースタイルはファンの支持を集めた[1]。2001年にはメキシコのクラブ・アメリカへ移籍し、初戦でハットトリックを達成するなどの活躍でリーグ優勝に貢献。キャリアの最後のシーズンを母国のクラブチーム・CSDコロコロで過ごし、2003年に現役を退いた。同12月23日にはサンティアゴで引退試合が行われ、5万の観衆が引退を惜しんだ。 1987年6月19日のペルー戦で代表デビューを果たす。コパ・アメリカ1991では6得点を挙げたガブリエル・バティストゥータに次ぐ5得点を記録した。同年に創設されたFIFA年間MVP投票でヨーロッパ人以外で最高の7位を記録した。1995年も同じく自己最高タイの7位に入った。チリの4大会ぶりの出場となったフランスW杯に出場し、マルセロ・サラスとの「Za-Sa(サ・サ)コンビ」で同国をベスト16へと導いた。また2000年のシドニー五輪にはオーバーエイジ枠で出場し銅メダルをもたらす原動力となり、自身は6得点を挙げて大会得点王となった。2001年9月1日のフランス戦を最後に代表を引退した。 引退後は一時期、チリのユース年代の代表チームでアシスタントコーチを務めた。また、チリで事業を行っていたが、結果大きな負債を抱える事となった[3]。現在は、アメリカのスペイン語スポーツチャンネル「TUDN」のサッカー解説者を務めている。 エピソードサッカーの世界でエースストライカーの代名詞とされる背番号「9」に特別なこだわりを持っていたことで知られる。インテル在籍時の1997-98シーズン、サモラーノが背番号9、そしてロナウドが10をつけていたが、翌1998-99シーズンにロベルト・バッジョが加入すると、バッジョが背番号10、ロナウドが9となり、サモラーノはクラブから背番号の明渡しを命じられた。一旦は拒否したが認められず、サモラーノは背番号18のユニフォームの1と8の間に小さな「+」を加えて(1+8=9)着用していた[6]。 現役時代は空中戦に強くヘディングの名手として知られたが、サモラーノ自身もヘディングでの得点については「ヘディングでのゴールはその選手がオールラウンドで、より完全な選手であることの証明となる」と独自の哲学を持っている[7]。 2003年に現役を引退した後は、ユニセフの親善大使となったことでも知られている。 個人成績
代表歴出場大会試合数
獲得タイトルチームタイトルチリ代表 チリ
スペイン
イタリア
メキシコ
個人タイトル
脚注
外部リンク
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