ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48) は[注釈 2]、アメリカ海軍の戦艦[注釈 3]。
コロラド級戦艦の4番艦[注釈 4][注釈 5]。
艦名はウェストバージニア州にちなむ。その名を持つ艦としては2隻目にあたる[注釈 6]。
「ウィー・ヴィー」 (Wee Vee) や「山男の戦艦」 (Mountaineer Battlewagon) の愛称があった[13]。
概要
ウェストバージニア (USS West Virginia) は[注釈 1]、アメリカ海軍がニューポート・ニューズ造船所で建造した標準型戦艦である。
コロラド級戦艦、もしくはメリーランド級戦艦に分類されている[注釈 7][注釈 8]。
一方でワシントン海軍軍縮条約などを筆頭に[19][20]、しばしば「ウェストバージニア級戦艦」[10](ウェストバージニア型戦艦)と言及される[22][注釈 9]。
1923年(大正12年)12月に完成した[注釈 10]。
建造中にワシントン海軍軍縮条約が締結されて[19]、列強各国保有艦艇に制限が加えられ[注釈 11]、ニューヨーク造船所で建造が進んでいたコロラド級3番艦ワシントン (USS Washington,BB-47) が標的艦として処分され、4番艦の本艦が生き残った。海軍休日時代、本艦を含めた列強各国の16インチ砲搭載戦艦は“ビッグ・セブン”と称された。
1941年(昭和16年)12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃で、戦艦列に繋留されていたウェストバージアは[注釈 12]、南雲機動部隊の艦上機による空襲を受け、魚雷多数が命中して沈没した。
本艦は復旧可能だったので浮揚され[38]、北アメリカ大陸西海岸のピュージェット・サウンド海軍造船所で大修理と大改装をおこなう。増加装甲を含めた防御力強化、バルジの装着、対空火器の増強、射撃管制装置、レーダーや艦上構造物の刷新により外観は一変し、サウスダコタ級戦艦を彷彿とさせる艦型となった。満載排水量は41,000トン以上となっている。
1944年(昭和19年)9月に修理を終え、フィリピン反攻作戦から戦列に復帰した。第7艦隊隷下のオルデンドルフ部隊に所属して対地支援任務に従事し、10月25日未明のスリガオ海峡海戦 (Battle of Surigao Strait) では西村艦隊を邀撃し、僚艦と共に戦艦山城の撃沈に貢献した[注釈 13]。
1945年(昭和20年)3月、硫黄島攻防戦で地上部隊を支援する。
3月下旬以降の沖縄戦では第5艦隊に所属し、第54任務部隊(指揮官モートン・デヨ少将)として対地支援任務に従事するが、4月1日に特攻機「桜花」に突入されて小破する。4月6日から7日にかけて日本軍が発動した菊水一号作戦において、本艦ふくめアメリカ戦艦群は世界最大の戦艦大和と水上砲戦で決着をつける意気込みであったが[注釈 14]、坊ノ岬沖海戦により大和が沈み[49]、実現しなかった。日本の降伏後、9月2日に降伏文書調印式に参加した。連合軍将兵の復員作戦に従事したあと予備役となり、1959年(昭和34年)に解体された。
艦歴
建造
ダニエルズ・プランに基づき、アメリカ海軍はコロラド級戦艦を4隻建造することになった。1番艦コロラドと3番艦ワシントンはニューヨーク造船所で建造され、2番艦メリーランドと4番艦ウェストバージニアはニューポート・ニューズ造船所で建造された。
ウェストバージニアはバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で建造された。1920年(大正10年)4月12日に起工した。1921年(大正10年)4月1日時点で、本級の完成度はコロラド約七割、メリーランドほぼ完成、ワシントン約六割、ウェスト・バージニア約五割と報道されている[注釈 15]。11月17日、ウェストバージニアはアリス・ライト・マン(アイザック・T・マンの娘)によって命名、進水した。
本艦進水直後の11月中旬にワシントン会議がはじまる[注釈 16]。会議開催時点で完成していた16インチ砲搭載戦艦は、日本海軍の長門(1920年11月下旬竣工、世界最初の16インチ砲搭載戦艦)と、アメリカ海軍のメリーランド(1921年7月竣工)だけであった。
華府会議では16インチ砲(40.6センチ砲)を搭載した陸奥の処遇を巡って、日本と諸外国間で激論となる[60]。
日本海軍は長門型戦艦2隻を、イギリス海軍はネルソン級戦艦2隻と巡洋戦艦フッドを保有(建造)することで合意した[65]。そして12月15日付のアメリカ国務省発表によれば、アメリカ海軍は就役済みのメリーランドを保有し[68]、メリーランド級戦艦「コロラド」と「ワシントン」を建造する方針であった[注釈 17][注釈 18]。
ところが翌年2月締結のワシントン軍縮条約では、未完成のウェストバージニア級戦艦2隻[20](ウェストヴァージニア、コロラド)の建造続行と保有になった[注釈 19][注釈 20]。
その代償として各国とも戦艦複数隻の廃棄を決定し、アメリカは旧式戦艦2隻を退役させた[注釈 11]。
こうしてワシントン海軍軍縮条約が結ばれたが、コロラド級戦艦3番艦のワシントンは標的艦として処分され[注釈 21]、4番艦のウェストバージニアが生き残った。
既述のようにワシントン軍縮会議中の国務省発表によれば、合衆国の保有対象は1番艦コロラド(BB-45、ニューヨーク造船所)と3番艦ワシントン(BB-47、ニューヨーク造船所)であった[11][注釈 22]。
本艦よりもニューヨーク造船所のワシントンの方が工事が進んでいたが、同造船所ではレキシントン級巡洋戦艦3番艦のサラトガを軍縮条約により空母に改造することになっていた。失業対策を兼ねて、ニューポート・ニューズ社の作業量を確保する意図があったという[注釈 23]。
16インチ砲を搭載した列強各国の超弩級戦艦7隻は、海軍休日時代 (Naval Holiday) において“世界七大戦艦”(もしくは“世界のビッグ・セブン”)と評された[注釈 24]。
アメリカでは、コロラド級戦艦3隻とテネシー級2隻(テネシー、カリフォルニア)で、ビッグ5 (Big Five) と謳われた。
1923年(大正12年)12月1日、ウェストバージニアは初代艦長トーマス・J・セン大佐の指揮下就役した。3番艦(ワシントン)が処分されたので竣工できた4番艦のウェスト・バージニアは、当時最新の造船技術が具現化された戦艦であった。その船体装甲はユトランド沖海戦前に設計された戦艦の装甲に比べて進歩が見られ、速力では長門型戦艦に劣るものの、砲撃力と防御力では同等以上の能力を持っていたといえる。
就役後、ウェストバージニアは数ヶ月をかけて公試および整調を行い改修が実施された。ニューヨーク海軍工廠での作業後、ハンプトン・ローズに向かう途中に操舵装置の故障が発生した。ウェストバージニアはハンプトン・ローズでオーバーホールを行い、1924年(大正13年)6月16日に外洋に向けて出航した。同日10:10、リンヘヴン海峡を通行中、操舵手は舵角指示器が反応しないと報告した。操舵室への非常ベルに対して反応が無く、ウェストバージニアのセン艦長は直ちに全機関の停止を命じた。しかしながら機関室からの応答はなく、操舵室および機関室への電信が通じなかったことが判明した。
その後、センはブリッジから伝声管を通じて機関室へ命令を行った。センは左舷機関室に対して全速を命じ、右舷に対しては停止を命じた。機関と操舵を維持する努力は海峡内で継続されたが、全ての努力は無駄となった。ウェストバージニアは機関故障により方向を失い、軟泥の海底に座礁した。副長のスターク中佐は「...船体への損傷はほとんど無かった」と報告した。調査委員会の事故調査により、不正確で誤解を招きやすい海図がウェストバージニアに与えられていたことが判明した。海図には実際よりも海峡の幅が大きく示されていた。この事実により、センおよび操舵手の事故に関する責任は問われなかった。
1925年(大正14年)1月23日、日本海軍の百武三郎中将が率いる練習艦隊(海軍兵学校第52期生)の海防艦3隻(八雲、出雲、浅間)が、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の各地を訪問する最中に[注釈 25]、サンフランシスコに入港した[85]。
アメリカ海軍はコロラド級戦艦3隻を接伴艦に指定し、日本海軍の練習艦隊を出迎える[注釈 26]。
ウェストバージニアは戦闘艦隊司令官ワイレー中将の旗艦として、接待と日米親善の舞台になった[87]。30日に日本練習艦隊3隻がサンフランシスコを離れる際も、コロラド級戦艦3隻と戦艦「アイダホ」は登舷礼をもって日本艦を見送り、ウェストバージニアの軍楽隊は日米双方の国歌(君が代、星条旗)および「蛍の光」を演奏した[注釈 27]
1932年1月から1933年4月まではウォルター・ストラットン・アンダーソン大佐が艦長をつとめた。アンダーソン艦長の指揮下で、ウェストバージニアは戦闘功労賞(英語版)を受賞した。
この頃になるとヴァイマール共和国(ドイツ)がドイッチュラント級装甲艦(通称ポケット戦艦)を建造し、まもなくナチス政権が再軍備宣言をおこなった[注釈 28]。この流れの中で、ヨーロッパで建艦競争が再燃した。
さらに第二次ロンドン海軍軍縮会議から日本が脱退し[93]、無条約時代となる。
アメリカ海軍も高速戦艦のノースカロライナ級戦艦やサウスダコタ級戦艦を建造する。このような状況下においても、16インチ砲(41cm砲)を搭載した“ビッグ7”は海軍力を象徴する存在でありつづけた[10][注釈 29]。
真珠湾攻撃
1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日)朝、南雲機動部隊の日本軍空母6隻から発進した艦上機がパールハーバーを奇襲した(真珠湾攻撃)。
ウェストバージニアは、太平洋艦隊の戦艦戦隊に所属し、第四戦艦戦隊 (Battleship Division 4) を構成していた(真珠湾攻撃、両軍戦闘序列)[注釈 1]。
第四戦艦戦隊司令官と太平洋艦隊戦艦部隊司令官 (Commander, Battleship Force, Pacific Fleet) を兼任するアンダーソン少将はウェストバージニア艦長を務めた経歴があった[注釈 30]。
当時、太平洋艦隊の主力艦はフォード島東側に繋留されて「戦艦列」を形成していた[注釈 12][注釈 31]。
ウェストバージニアは戦艦オクラホマと戦艦メリーランドの後方に停泊しており、本艦の右舷側(陸地側)には戦艦テネシー が繋留され、本艦後方には工作艦ヴェスタルと戦艦アリゾナが停泊していた[注釈 32]。
フォード島周辺に停泊するアメリカ戦艦群に対し[注釈 33]、赤城飛行隊長村田重治少佐が率いる九七式艦上攻撃機 40機が雷撃をおこなう。
ウェストバージニアに対し、一航戦の赤城攻撃隊が左舷中央部に魚雷3本命中[注釈 34]、加賀攻撃隊が左舷後部に魚雷4本命中、二航戦の飛龍攻撃隊が左舷前部に魚雷2本命中を記録する。アメリカ側の記録では、左舷に6本-7本の魚雷が命中した。6本の魚雷のうち1本は不発であったが、3本は舷側装甲帯の下に命中し左舷側の広範囲に浸水を来した。1本は舵付近に命中した。1本は舷側装甲板に命中し、その修復のためには7枚の装甲板の交換を必要とした。魚雷による浸水は深刻であり、クロード・V・リケッツ中尉は重傷のベニオン艦長の許可を得て、反対舷側(右舷側)に注水をおこなう。傾斜復旧のために注水可能な全区画に対して注水が行われたので、ウェストバージニアは湾内で着底したが、転覆を免れて対空戦闘を続行することが出来た。さらに幸運なことに、航空燃料補給のため繋留されていた給油艦ネオショーが第一波空襲と第二波空襲の間に自力で退避したので、アメリカ戦艦群は重大な危機を免れた[注釈 35]。
赤城飛行隊長淵田美津雄中佐(海兵52期)が率いる九七式艦上攻撃機の水平爆撃隊も、アメリカ戦艦群に大損害を与えた[注釈 36]。ウェストバージニアには、長門型戦艦の九一式徹甲弾(40cm砲弾)を改造した800kg爆弾が、2発命中した[注釈 37]。
1発目は探照灯甲板を貫通して第二甲板に到達したが、不発であった。2発目は第3主砲の天井(装甲厚100mm)を貫通し第3主砲の片側の砲を破壊して使用不能にしたが、同じく爆発しなかった。しかし、砲塔上のカタパルトのOS2U水上機から航空燃料が漏出し、これによる火災が発生した。ウェストバージニアはこの火災と、本艦の右舷後方で爆沈したアリゾナから流出した重油による火災によって深刻な脅威に晒され、30時間も燃え続けた。
他艦に較べれば被害の少なかったテネシーが、消火活動に協力した。最終的にウェストバージニア乗員は艦を放棄して退避している。戦死者は106名に及んだ。本艦艦長のマーヴィン・シャープ・ベニオン大佐は、テネシーで起きた爆発の破片により致命傷を負って戦死し、死後にキッド少将等と共に名誉勲章を授与された[141][注釈 38]。艦長の元にかけつけた二等主計兵ドリス・ミラーは[注釈 39]、ベニオン艦長が死亡すると対空機銃を操作して戦闘に加わった[注釈 40]。この功績で、ミラーはアフリカ系アメリカ人として最初に海軍十字章を授与された[146][注釈 41]。
ウェストバージニアの被害は、魚雷5~7本命中(9本とも)、爆弾2発命中というものだった。アメリカ海軍は、真珠湾攻撃で損傷した艦艇の修理と復帰を急ぐ[38]。本艦は魚雷の命中孔を塞ぐ処置がなされたのちに、1942年(昭和17年)5月17日に浮揚された。籠マスト(英語版)など、多くの艤装品が撤去された状態で6月9日に乾ドックに収容され、本格的な修復作業が始まる。その修理の際に艦内から66名の遺体が発見された。数名は蒸気配管の頂部の空気が残っていた区画に横たわっており、また倉庫区画で発見された3名は、残されていたカレンダーから着底後も戦闘配置場所からの真水と非常食を用いて前年12月23日まで生存していたことが示された。
大改装後
改装により外観が大きく変化したウェストヴァージニア
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ウェストバージニアは1943年(昭和18年)5月7日に真珠湾を出発し、自力でアメリカ本土西海岸にむかった。前後の籠マストは既に撤去されており、航海艦橋後方の頂部に通信用の短い仮設マストを装備している。ワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所で、本格的な修理と大規模な近代化の改修工事を受けた。大改装により速力以外では米新鋭戦艦(ノースカロライナ級、サウスダコタ級)に匹敵する能力となり[注釈 42]、特にバルジの装着と水平装甲の強化により防御力では米新鋭戦艦を部分的に上回っている[22]。その代償として満載排水量は41,000トンを超え、艦幅の増大によりパナマ運河通過を諦めざるを得なくなり、機関部も改装しなかった事から最高速力が若干低下した[22]。なおウェストバージニアに実施された改造は徹底的だったので、姉妹艦よりも高性能となった。
1944年(昭和19年)7月に修理を終え、9月から太平洋艦隊に復帰した。
同年10月24日深夜から25日未明にかけて、スリガオ海峡で第7艦隊(司令長官キンケイド中将)と、栗田艦隊分遣隊(西村艦隊)との間で夜戦が繰り広げられた(レイテ沖海戦、スリガオ海峡夜戦)。ウェストバージニアはジェシー・B・オルデンドルフ中将が指揮する第77任務部隊において戦列部隊(第2群、G・L・ウェイラー少将)に所属しており、西村祥治中将が率いる第一遊撃部隊第3部隊(通称“西村艦隊”または“西村部隊”)を迎え撃った(連合軍戦闘序列)。
西村艦隊は米軍水雷戦隊の襲撃で戦艦扶桑と駆逐艦3隻が沈没するか戦闘不能となる。スリガオ海峡をなおも北上したのは、3隻(戦艦山城、航空巡洋艦最上、駆逐艦時雨)だけだった。
ウェストバージニア以下の戦列部隊は、西村艦隊残存3隻に集中攻撃を加えた。また真珠湾攻撃時に戦死したウェストバージニア艦長にちなむ駆逐艦ベニオンも、山城に魚雷攻撃を行った。大改装組(ウェストバージニア、テネシー、カリフォルニア)は射撃用レーダーと射撃指揮装置を活用し、有効な砲撃を行ったとされる。
第77任務部隊は山城を撃沈し、味方駆逐艦アルバート・W・グラントを同士討ちで撃破したのみで、最上と時雨に逃げられた[注釈 43]。
1945年(昭和20年)2月半ばまでレイテ湾周辺での哨戒、対空戦闘を実施した後に海域を離れ、ウェストバージニアは硫黄島の戦いと沖縄の戦いで上陸部隊支援のための艦砲射撃と対空警戒に従事した。沖縄戦ではスプルーアンス大将が率いる第5艦隊 (U.S. Fifth Fleet) に所属し、モートン・デヨ少将の第54任務部隊において、第4砲撃部隊(指揮官Lynde D. McCormick少将)として行動する(沖縄戦、連合軍海上部隊戦闘序列)。
沖縄地上戦開始後の4月1日、特攻兵器「桜花」(神雷部隊)の突入で小破した。この頃、菊水一号作戦で戦艦大和以下の水上特攻部隊が沖縄を目指して出撃した[49]。第54任務部隊は4月7日から8日にかけて沖縄西方海上へ展開し、大和艦隊の襲撃に備えた。しかし、大和艦隊を攻撃したのは空母機動部隊であった[48]。大和らは第58任務部隊の空襲によって撃沈され、デヨ部隊は翌朝にその知らせを受け取った(坊ノ岬沖海戦)。4月16日、伊江島の戦いで艦砲射撃に従事。
戦後
太平洋戦争は1945年(昭和20年)8月15日に終結し、ウェストバージニアは占領任務を担当するため上陸部隊に対して訓練を行った。8月24日に第35.90.任務群の一艦として東京湾に向けて出航、8月31日に東京湾に到着し、9月2日の日本の降伏文書文書調印式に戦艦コロラドやサウスダコタなどと共に臨席した(調印式時、所在艦艇一覧)。当日はウェストバージニアの軍楽隊から5名が戦艦ミズーリに移乗し、式典で演奏を担当した。
ウェストバージニアは東京湾に留まり、9月まで占領任務に従事した。9月14日に西海岸に帰還する270名を乗艦させた。第30.4.任務群の一艦として9月20日の深夜、沖縄に向けて出航した。9月23日に中城湾へ進路を変え、その後間もなく真珠湾に向かい真珠湾には10月4日に到着した。
真珠湾で乗組員は艦に塗装を行い、ウェストバージニアにはサンディエゴに向かう乗客が乗り込んだ。ウェストバージニアは10月9日に出航し、10月22日の13:28にサンディエゴの海軍埠頭に接岸した。その2日後、第4戦艦部隊の指揮官I・C・ソーウェル少将が座乗した。
海軍記念日にウェストバージニアには25,554人の訪問客が訪れた。3日後の10月30日、マジック・カーペット作戦に参加するためハワイ海域に向けて出航した。真珠湾とサンディエゴ間を2度往復し、2度目にはウィリアム・W・スミス少将が座乗しサンフランシスコに向かった。
西海岸とハワイ間の往復を行った後、ウェストバージニアは12月17日にカリフォルニア州サンペドロに到着した。1946年(昭和21年)1月4日にワシントン州ブレマートンに向けて出航し、12日に到着、16日に不活性化のためシアトルに向かい、姉妹艦コロラドの横に停泊した。
同年2月に不活性化の最終段階に入り、1947年(昭和22年)1月9日に退役[22]、太平洋予備役艦隊で保管された。ウェストバージニアはその後現役任務に復帰することはなく、1959年(昭和34年)3月1日に除籍された[22]。同年8月24日にニューヨークのユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社にスクラップとして売却された。1963年(昭和38年)5月11日、艦のメインマストがウェストバージニア大学に贈呈され、現在も記念物として展示されている。艦内時鐘はウェストバージニア州立博物館へ贈呈された。
ウェストバージニアは第二次世界大戦の戦功により5個の従軍星章を受章した。
登場作品
映画
- 真珠湾攻撃のシーンで、ウェストバージニア乗組員ドリス・ミラー(エルヴィン・ハーバード Elven Havard)が艦橋の機銃を操作して対空戦闘をおこなう。またキンメル長官に幕僚が各艦の損害を報告するシーンで「ウェストバージニア」にも言及している。
- ウェストバージニア乗組員のドリス・ミラー(キューバ・グッディング・ジュニア)が、前部甲板上で乗組員同士のボクシングを行う(映画開始44~46分)。真珠湾で記念艦となっている戦艦「ミズーリ」で撮影されたため、50口径16インチ三連装砲塔や塔形艦橋が写る[170]。マーヴィン・ベニオン艦長はピーター・ファースが演じた。真珠湾攻撃のシーンでは、ベニオン艦長の負傷、対空戦闘をおこなうミラーの描写もある。またミラーが対空機銃で応戦する際を含め、ウェストバージニア(ミズーリ)の横にノックス級フリゲート「ウィップル」が停泊している[170]。
脚注
注釈
- ^ a b c 【メリーランド型】ウエストヴアージニア號(戰闘部隊戰艦旗艦兼第四戰艦隊旗艦、アンダーソン少将坐乗、艦長マークランド大佐) メリーランド號(艦長マツキー大佐)要目=一九二一年竣工、排水量三万千五百トン、速力二〇.七ノツト、主砲十六インチ砲八門、副砲五インチ砲十二門、高角砲五インチ砲八門
- ^ 日本語ではウェストヴァージニヤ[注釈 1]、ウヱストヴァージニア、ウェストバージニヤ、ウェスト・ヴァージニアと表記することもある。
- ^ 戰艦“ウエスト・ヴアジニア West Virginia” 全要目{排水量31,800噸 速力21.0節 備砲40糎砲8門 12.7糎高角砲12門 魚雷發射管(53糎水中)2門 起工1920年4月 竣工1923年12月 建造所 ニューポートニュース造船所} 排水量は一寸大きいが外はすべてメリーランドと同一の要目。この寫眞では後部砲塔の上と後甲板とにカタパルトを装備してゐるのがよく判る。今日まで永い間名のみ著名なる大戰艦として、閑地にあつたが、主として巡洋艦の建造で發達した新時代の造船技術は、徹底的に、この大戰艦を改造し新らしい35,000噸戰艦として再誕生させることであらう。主砲と、その射撃装置、航空機に對する兵装等改善すべきところは非常に多い。また速力も増さなければなるまい。
- ^ 日本ではウェストバージニヤ型と表記したこともある[10]。アメリカ側の報道や日本海軍の将校でも[11]、最初に完成したメリーランド (USS Maryland, BB-46) をネームシップとしてメリーランド級戦艦と呼称することもある。
- ^ 亞米利加合衆國 戰艦メェリーランド(一九二一年七月竣工) 基準排水量三一五〇〇噸。(全載量三三五九〇噸、時速二一節。一九一六年、第四六號艦として認可。コロラド(四五號艦)及びウェスト・ヴァジニア(四八號艦)と同型。旗艦たるに適ふ。砲塔並びに後尾甲板上に各々一基カタパルトを有す。幾らか全載量の大なる外は殆どカルフヲルニア級と大同小異。華府海軍條約に依り廢棄。
- ^ 初代はペンシルベニア級装甲巡洋艦のウェストバージニア (USS West Virginia, ACR-5) で、2代目の本艦に名前を譲ってハンチントン (USS Huntington, CA-5) と改名された。3代目はオハイオ級原子力潜水艦のウェストバージニア (USS West Virginia, SSBN-736) 。
- ^ 撃滅された米主力艦の性能(略) (2)メリーランド型=代表艦はメリーランドで排水量三萬一千五百噸 一九二一年完成、十六インチ砲八門、五インチ砲二十門の装備を有し速力は二十一節、ウエストヴアーヂニア(三一,八〇〇噸)とコロラド(三二,五〇〇噸)が姉妹艦である(寫眞(2)はウエストヴアーヂニア)(以下略)
- ^ 一、敵方損害 ◇撃沈 戰艦五隻{オクラホマ、アリゾナ、ユタ(以上米確認) カリフォルニヤ型、ウエストバージニヤ型(中略)註 一、昭和十六年十二月八日、同十八日、翌十七年三月六日の大本營發表に依る/二、カリフォルニヤ型はカリフオルニヤ及びテネシーの二艦、メリーランド型はメリーランド及びウエストバージニヤの二艦をいふ。但しメリーランド型一隻は一九四二年五月二十一日南米沖大西洋岸に於て伊太利潜水艦に依り撃沈された旨政府は發表した。從つてメリーランド型は二艦とも撃沈されたわけである)(以下略)
- ^ ウェストバージニア級戦艦の呼称は、第二次世界大戦以前から使用されている。
- ^ 列國艦艇一覧表(昭和十一年十二月三十一日調) 〔 國別:米國|現状:既成|艦名:ウェスト・ヴァジニア(48) }電氣推進|排水量:三一,八〇〇|速力:〃(二一.〇)|備砲 主砲:〃(四〇-八)/副砲:〃(一三-一二)|魚雷發射管(糎)數:―|竣工年月日(西暦):二三.一二 〕〔備考〕艦名欄の數字ハ公稱番號ヲ示ス、33-42ノ一〇隻ハ改造濟ナリ、尚産業復興費ニヨリ43以下ノ五戰艦ヲ改装セントシツヽアリ(以下略)〕
- ^ a b 第二章 本條約實施ニ關スル規則及用語ノ定義 第一節 締約國ノ保有シ得ヘキ主力艦 各締約國ハ第二條ノ規定ニ從ヒ本節ニ掲クル軍艦ヲ保有スルコトヲ得 合衆國ノ保有シ得ヘキ軍艦 艦名「メリーランド」噸數三二,六〇〇(中略)第二條ノ規定ニ從ヒ「ウェスト、ヴァージーニア」級二隻ヲ完成シ且「ノース、ダコータ」及「デラウェーア」ヲ廢棄シタル上ハ五十二萬五千八百五十噸ナリ(以下略)
- ^ a b その情景は“戦艦通り Battleship Row”と呼ばれていたという。“戦艦桟橋”、“戦艦横丁”と翻訳した資料もある。
- ^ 西村艦隊の戦艦扶桑はアメリカ軍水雷戦隊の雷撃で沈没しており、アメリカ戦艦部隊は関与していない。
- ^ 大和型戦艦は18.1インチ砲を装備した満載排水量7万トン級戦艦だったが[47]、アメリカ海軍の認識では45,000トン級戦艦であった[48]。
- ^ 建造中の米海軍精鋭[52] 本年四月一日附の調査に依れば米國海軍の精鋭たるべき超弩級艦十一隻は将に完成せんとしつゝありキャルホルニヤの既に九六一パーセント完成せるを初めとして コロラド六九.三、メリーランド九六.八、ワシントン六一.二、ウヱスト・バヂニヤ四九.五、サウス・ダコタ二六.七 インデヤナ二三.一、モンタナ一八、ノース・カロライナ二七.二、アイオワ一六.一、マサチュセッツ二.五の割に完成せるが二三隻を除きては總て建造を急ぎ居り(華府)(記事おわり)
- ^ (前略)第二艦の「陸奥」は華府會議の際既に竣工してゐたにも拘らず、米國が未成艦なりと主張して譲らなかつた爲に喧ましい問題となり、遂に「陸奥」を生かす代りに、米國は當時建造中の十六吋砲戰艦「コロラド」「ウェスト・ヴァージニア」の二艦を生かし、英國は新たに「ネルソン」「ロドネー」の十六吋砲戰艦二隻を建造することになつて鳧がついたことは有名な史實である(以下略)。
- ^ 修正された海軍縮小案 日英米佛伊五國協約として調印せん[69](華府十二月十五日發)本夜國務省は正式に日英米三大國海軍主力艦五五三比率が協定に達した旨發表した。日本は其要求通り舊艦攝津の代りに陸奥を保留し、米國はデラウエヤ及びノースダコタの代りにメリーランド級のコロラドとワシントンを保留、英國はメリーランド及び陸奥級の超弩級艦二隻を新たに建造し其の代りに保留と決し居る四隻を廢棄するであらう。(以下略)
- ^ 十六日東京發東方電[70] 華盛頓來電に依れば海軍比率問題の協議は結局日本は『攝津』を廢して『陸奥』を復活し米國は『デラウヱア』と『ノースダコタ』を廢して未製艦『コロラド』と『ワシントン』を建造することとなり英國は老齢艦五隻を廢して計畫中のフード型二隻((四萬五千噸))を建造することに成立し十五日調印する筈なりと(記事おわり)
- ^ 第一節 主力艦/(一)總説(中略)更に又華府會議の結果として、一旦廢棄の運命に在つた我戰艦陸奥が復活され、之と均衡を保つべく米國に於てはコロラド及ウエスト・ヴアジニアの二艦を竣工就役させ、英國は新たにネルソン、ロドネーの二隻を建造することとなつた。(米國戰艦コロラド、要目および寫眞)
- ^ 第二條 締約國ハ第二章第一節ニ掲クル主力艦ヲ各自保有スルコトヲ得本條約實施ノ上、合衆國、英帝國及日本國ノ既成又ハ建造中ノ他ノ一切ノ主力艦ハ第二章第二節ノ規定ニ從ヒ之ヲ處分スヘシ但シ本條中ノ左ノ諸規定ヲ留保ス
合衆國ハ第二章第一節ニ掲クル主力艦ノ外現ニ建造中ノ「ウェスト、ヴァージーニア」級二隻ヲ完成シ之ヲ保有スルコトヲ得 右二隻完成ノ上ハ「ノース、ダコータ」及「デラウェーア」ハ第二章第二節ノ規定ニ從ヒ之ヲ處分スヘシ
英帝國ハ第二章第三節ノ代換表ニ從ヒ基準排水量各三萬五千噸(三萬五千五百六十「メートル」式噸)ヲ超エサル新主力艦二隻ヲ建造スルコトヲ得右二隻完成ノ上ハ「サンダラー」「キング・ジョージ」五世、「エージャックス」及「センチューリオン」ハ第二章第二節ノ規定ニ從ヒ之ヲ處分スヘシ
- ^ 8代目のワシントン (USS Washington,BB-47) は、1919年(大正8年)6日30日に起工、1921年(大正10年)9月12日に進水、1923年(大正12年)11月10日に廃棄が決定した。1924年(大正13年)11月下旬に各種爆破実験と艦砲射撃の標的となって沈没した。ノースカロライナ級戦艦2番艦のワシントン (USS Washington, BB-56) は9代目。
- ^ 海軍協定案公表[75](中略)二、日本は『攝津』を廢棄し『陸奥』を加へ米國は『ノースダコタ』『ベラウェア』の除き『ワシントン』及『コロラド』を加へ英國は英國噸數に於て三万五千噸以下のもの二隻を新造しキングジョージ五世級四隻を廢棄す(以下略)
- ^ ニューポート・ニューズ社はレキシントン級巡洋戦艦2番艦コンステレーション (USS Constellation, CC-2) と同級4番艦レンジャー (Ranger,CC-4) を建造中だったが、ワシントン軍縮条約により2隻とも建造中止となった。。
- ^ 戰艦“長門 ながと” 全要目{排水量32,720噸 速力23.0節 備砲 40糎砲8門 14糎砲20門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管6門 起工大正6年8月 竣工大正9年11月 建造所 呉海軍工廠} 長門は40糎砲といふ巨砲を世界で初めて搭載した戰艦であり、艦型に於ても從來のものを完全にノツクアウトし、列強海軍をして瞠若たらしめた艦である。從來先進列強にとかく後塵を拝せしめられてゐた帝國は一躍世界をリードする日本たることを證明したのである。新鋭長門は今や聯合艦隊主力として海軍無條約時代に備ふ我海軍たのみの艦である。戰艦は艦隊の根幹でありその價値は搭載する主砲の威力と防禦設備如何に依つて決定される。主砲は敵主力艦隊を撃滅するものであり、副砲は主として來襲する敵の輕快部隊に備へるものである。世界の七大戰艦とは、我が“陸奥” “長門” 英の“ネルソン” “ロドニー” 米の“ウエスト・ヴァジニア” “コロラド” “メリーランド”の七艦である。
- ^ 日本近信 十一名の遺骨をのせて練習艦隊歸る 無電羅針局設置の急を説く百武司令官[84] 昨年十一月十日横須賀を出港した百武中将の率ゆる練習艦隊八雲、出雲、淺間は南北アメリカの兩海岸及び南洋を巡航し二萬浬を走破して四月四日午前九時横須賀に歸港した出雲艦はヴァンクーヴァーで汽艇の沈没により悲惨な死を遂げた下士官兵十一名の遺骨を搭載して來た(中略)米國海軍省がその最新鋭の戰艦ウエストヴァージニア。メリーランド。コロラドの三隻をワイレー中将の指揮の下に接待の任務を以て廻航させた外種々の催しを爲し我が艦隊を歡迎してくれた(以下略)
- ^ 自序 大正十三年から十四年にかけて、帝國海軍練習艦隊(淺間、八雲、出雲の三艦、司令官は百武中将・現侍從長)は横須賀を發し、布哇、アカブルコ(墨國)、パナマ、マンザニオ(墨國)桑港 バンクーバー、ホノルル等を經て南洋委任統治領を巡航した。余は淺間艦長として、この練習航海に從事したが、桑港碇泊中、米東洋艦隊の精鋭『ウエストバーヂニヤ』『コロラード』『メリーランド』の三艦が接伴艦として歡迎これ努めた。/ 當時米國は皇國に對し、殆んど禁止的とも見られる移民大制限を斷行した直後であり、皇國の與論も、嘗て見ざるほどの沸騰を惹起しつつあつた折柄、米國民上下は、日本が如何なる態度に出るかに就いて、異常な注目を集中してゐた。(以下略)
- ^ 無限の感慨を殘し練習艦隊出港 七臺の飛行機と米艦乗總員の登舷禮に送られて海を壓する軍樂交換[88](中略)兩司令官の別辭 固き握手は日米親善の明な現れ午前七時半我が百武司令官は各艦長幕僚を從へ米艦隊旗艦ウエストバーヂニアにワイレー司令官を訪ひ無量の感慨を短い言葉に託して感謝と別辭とを殘して歸艦すれば之に應ずべくワイレー中将も午前八時半幕僚を從へ旗艦淺間に至り別辭と共に之を通じて固く恒久なるべき日米兩國の親交を希望して去る。(中略)荘嚴なる君ヶ代勇ましき軍歌と兩海軍歡呼の聲 やがて正一時重き錨がスルすると捲上げられると見る内に浮城の如き巨艦淺間が先づ徐々に行進し續いて出雲、八雲も之に從ふ。米艦隊のウエスト・バーヂニア、メリーランド、コロラド、アイダホの四艦總員は此の時登舷禮を行ひ二聲三聲我が艦と喇叭の別辭があるウェスト・バーヂニアからは湧くが如く君ヶ代の軍樂が海面を渡つて響き、次で米國々歌と送別の、『螢の光』の曲が奏せられる。空には爆音勇ましく 七臺の米陸軍飛行機が雁行し 又相亂れ飛び幾回となく我が三艦をかすめて低空飛行を試みその都度我が将士が帽をふって應ずる。米艦からは萬歳の聲が雷と鳴り、我も亦萬歳三唱と共に米國々歌と『攻めるも守るもくろがねの…』の軍樂が淺間より起つて實に 壮美極り なく互に感激あふれて未曾有の史的光景を點出した。淺間の軍樂隊は尚も『螢の光』を奏して其の響の薄れ行くと共に艦影も又金門灣のあなたに棚曳く煙をのこして消ゑ行いた。(記事おわり)
- ^ 再軍備宣言後により、ドイツ共和国海軍 (Reichsmarine) がドイツ海軍 (Kriegsmarine) となる。
- ^ 米國海軍の現有勢力(一九三七年七月一日) (一)主力艦 一五隻 この内一〇隻は既に改装濟であつて、再改装をするものもある。我が「長門」「陸奥」に匹敵する四〇糎砲主力艦は、「メリーランド」「コロラド」「ウェスト・ヴァ―ヂニア」の三艦である。
- ^ アンダーソン少将の着任は、1941年(昭和16年)1月下旬であった[108][109]。
- ^ NHKアーカイブス「特報ハワイ大空襲」、メリーランド型戦艦と戦艦横丁の映像[110]。
- ^ メリーランドの前方には給油艦ネオショーと戦艦カリフォルニアが、戦艦アリゾナの後方には戦艦ネヴァダが停泊していた。
- ^ (前略)劈頭の第一撃はフオード島東側泊地の敵大主力艦群に向けられた。/ 眞珠灣深くフオード島寄りにオクラホマ型(ネバダ)につゞいたオクラホマ型と特務艦、次にアリゾナ型(テネシー)とメリーランド型(ウエスト・ヴアージニヤ) アリゾナ型(アリゾナ)メリーランド型(メリーランド)とが、それぞれ二隻宛舷を摩し、少しはなれたところにカリフォルニヤ型(カリフオルニヤ)對岸の海軍工廠内深くカリフオルニヤ型(ペンシルバニヤ)が見事な艦列を敷いてならんでゐた。/ 眞珠灣には、標高千餘米の山嶺が、西側にせまつてゐる。編隊をもつて雷撃することは、きはめて困難なことである。(以下略)
- ^ 村田大尉機もウェストバージニアに魚雷を命中させ「われ、敵主力を雷撃す、効果甚大」と打電している。
- ^ もしネオショーが被弾、燃料に引火して大爆発をおこしたら、周辺の戦艦達は焼き尽くされていた筈である。
- ^ 水平爆撃隊50機(淵田機含む)の内訳は、赤城15、加賀15、蒼龍10、飛龍10。
- ^ 日本側記録ではウェストバージニアに800kg徹甲爆弾3発、加賀急降下爆撃隊が250kg爆弾1発命中。
- ^ ベニオン艦長を記念し、フレッチャー級駆逐艦の1隻がベニオン (USS Bennion,DD-662) と命名された。後日、レイテ沖海戦でウェストバージニアと同じく第77任務部隊に所属した。
- ^ ミラーは、ウェストバージニアのヘビーウエイト級ボクシングのチャンピオンであった。戦闘配置は対空火器弾薬庫。
- ^ ミラー達は負傷したベニオン艦長を艦橋から運び出すように命じられたが担架がなく、担架が届くまで対空戦闘に従事したという。
- ^ 後日、ミラーは護衛空母リスカム・ベイ (USS Liscome Bay, CVE-56) に配属され、同艦沈没時に戦死した(ガルヴァニック作戦)。彼を記念して、アメリカ海軍はフリゲート艦ミラー (USS Miller, FF-1091) を建造し、原子力空母ドリス・ミラー (USS Doris Miller, CVN-81) の建造を予定している。
- ^ 対空警戒用レーダーも、前部マスト頂武にSK型を、後部の棒状マストの頂部にSC型を搭載した。
- ^ 損傷しながら海峡から脱出した最上だったが、昼間の航空攻撃で致命傷を受け、救援にきた駆逐艦曙(第7駆逐隊)に処分された。逃げ遅れた朝雲は追撃してきたオルデンドルフ部隊によって撃沈された。
出典
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参考文献
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- (112-124頁)元「加賀」艦攻隊長・海軍少佐橋口喬『高々度水平爆撃隊「戦艦アリゾナ」」撃沈秘話 各種爆弾の研究から緒戦の戦果をうむまでの実験秘録』
- (125-133頁)元「加賀」艦攻隊偵察員・海軍少尉吉野治男『加賀雷撃隊「戦艦オクラホマ」に針路をとれ 八〇〇キロ魚雷一本に祖国の興隆をかけた男たちの苦闘』
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- ドナルド・マッキンタイヤー「(5)西村艦隊なぐりこむ」『レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』大前敏一 訳 、産経新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス5〉、1971年3月。
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- ミリタリー・クラシックス編集部、執筆(松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎)、図面作成(田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一)「第二章 アメリカの戦艦」『第二次大戦 世界の戦艦』イカロス出版〈ミリタリー選書6〉、2005年9月。ISBN 4-87149-719-4。
- 山本悌一郎「第二章 真珠湾炎上」『海軍魂 若き雷撃王村田重治の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉。ISBN 4-7698-2129-8。
- 歴史群像編集部編『アメリカの戦艦 「テキサス」から「アイオワ」級まで四〇余年にわたる発達史』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.58〉、2007年5月。ISBN 978-4-05-604692-2。
関連項目
外部リンク