エドワード・オーガスタス (ケント公)
ケント=ストラサーン公エドワード・オーガスタス王子(The Prince Edward Augustus, Duke of Kent and Strathearn, 1767年11月2日 - 1820年1月23日)は、イギリス王ジョージ3世の四男でヴィクトリア女王の父。 経歴イギリス王ジョージ3世と王妃シャーロットの5子としてロンドンのバッキンガム館(後のバッキンガム宮殿)に生まれる[1][2]。 1786年にイギリスとハノーファーの陸軍の将校となり[2]、ジブラルタルやカナダの駐屯地に勤務したが、部下に過酷な刑罰を科して快楽を得ていた。その結果3回にわたって兵隊が彼に反乱を起こす事態となり[1]、落馬事故もあって1799年にはイギリスへ帰国する羽目となった[2]。私生活でも借金まみれの自堕落生活を送っていた。 帰国時の1799年4月22日にケント公爵、ストラーサン公爵、ダブリン伯爵に叙せられた[3]。また同年5月10日には大将に昇進[2]。 1800年秋には北アメリカ(カナダ)駐留軍最高司令官としてカナダへ戻ったが、1802年にはジブラルタル総督兼最高司令官に転任した[2]。1805年9月5日には陸軍元帥に昇進した[2]。 1813年にはフリーメイソンのイングランド・古代派グランドロッジのグランドマスターに就任した[4]。しかしまもなく古代派グランドロッジと近代派グランドロッジは統合されて連合グランドロッジが創設され、そのグランドマスターには近代派のサセックス公爵オーガスタス・フレデリック王子が就任した[5]。 ナポレオン戦争には従軍せず、ナポレオン敗退後にはブリュッセルで生活を始めた[2]。 彼は1790年頃にジブラルタルで知り合ったフランス人ジュリー・サン・ローランと27年にわたって同棲生活を送っていたが[1][6]、1817年に長兄の摂政皇太子ジョージの一人娘シャーロット・オーガスタが薨去すると、ジョージ3世の王子たちにしかるべき君主家の娘を妻に迎えての嫡出子作りが強く期待されるようになった。ケント公にも摂政皇太子と議会は資金援助をちらつかせて正規の妻を持つよう促した。ケント公は王朝の存続より借金地獄から逃れたいという個人的欲望に突き動かされ、ジュリーと絶縁してザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国の公フランツの娘でエミヒ・カール・ツー・ライニンゲン侯爵未亡人のヴィクトリアと結婚した[7]。 翌1819年にヴィクトリア妃との間にアレクサンドリナ・ヴィクトリア(ヴィクトリア女王)を儲けたが、エドワード自身は1820年1月に薨去した。ヴィクトリアがまだ生後8か月の時のことだった[1]。 人物身長185cmでたくましい体つきだった[6]。ジョージ3世の他の王子たちと同様にエキセントリックな性格の持ち主として知られた[1]。 陸軍軍人としての彼は、部下の兵士には無慈悲だったが、同階級の将校の間では人気者だった[6]。 系図
脚注出典
参考文献
関連項目以下の地名がエドワードにちなんで名づけられた。
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