オスカー・ララウリ
オスカー・ルーベン・ララウリ(Oscar Rubén Larrauri, 1954年8月19日[1] - )は、アルゼンチン出身のレーシングドライバーである。ウォルター・ブルンのチームと深い関係を持っていた。「オスカル・ララウリ」「オスカル・ラッラウリ」と表記されることもある。 経歴初期アルゼンチンでレース活動を開始し、1979年にアルゼンチンF3選手権に参戦した。 ヨーロッパ・フォーミュラ31980年にイタリアへ渡り、アストラ・レーシングよりヨーロッパF3に参戦を開始した。トリノ・コルセに移籍した1981年に同シリーズでの初優勝を挙げランキング5位、1982年には全14戦で12度の表彰台、優勝7回とキャリアハイのシーズンを過ごし、エマニュエル・ピロ、アラン・フェルテ、ジョン・ニールセン、フィリップ・アリオーなどに大差をつけてのシリーズチャンピオンを獲得した。同年はモナコグランプリ前座のF3カップでも3位表彰台に立っている[2]。 1983年にミナルディからヨーロッパF2に6レース出走し最高7位を記録したが、ポイントを獲得することはできなかった。 スポーツカー1983年にF2参戦と並行してランチア・フェラーリで世界スポーツカー選手権(WSC)に参戦を開始し、1984年にブルン・モータースポーツに移籍した。以後1986年にはル・マン24時間レースで2位を獲得したほか、初優勝も挙げてドライバーズランキング6位を獲得した。 以後、ブルン・モータースポーツが解散する1991年まで、同チームから参戦を続けた。 日本のスポーツカーレースにも参戦し、1986年から91年まで全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権へレイトンハウスやジ・アルファ・レーシングwithブルン等のポルシェ・962Cを走らせた。 フォーミュラ11988年に、ブルン・モータースポーツがユーロレーシングと共同で「ユーロブルン」を設立してF1に参戦すると、ララウリはそのレギュラードライバーに起用された。 33歳と遅いF1デビューとなったララウリは8回予選通過に成功したが[3]、チームメイトとなった前年度国際F3000チャンピオンのステファノ・モデナに予選で1勝15敗と完敗しており、シーズン終了後にユーロブルンのシートを喪失する。しかし、翌1989年、1カーエントリーとなったユーロブルンのドライバーとなったグレガー・フォイテクが、シーズン途中で一度も予備予選を通過出来ないマシン戦闘力への不満からスポンサーマネーの支払いを打ち切りチームから離脱、ドイツのリアルへと移籍した。その穴埋めとして第12戦イタリアGPより再度ユーロブルンにララウリが呼ばれ、最終戦までの5戦に参戦した。結果はフォイテクと同じく全戦で予備予選落ちに終わり、F1参戦は同年限りとなった。 全日本GT選手権1994年から1996年までは全日本GT選手権に参戦し、チームタイサンのフェラーリ・F40やポルシェ・911 GT2を走らせた。1994年の第5戦MINEサーキットではパートナーの太田哲也と共に優勝を果たした。 南米へ復帰ヨーロッパでのレース活動は1995年のイタリア・スーパーツーリングカー選手権にアルファロメオ・155でフル参戦したのがラストシーズンとなり、最高位は6位でシリーズランキング10位であった。1997年から南米のレースに戻り、スーダメリカーナ・スーパーツーリズモにBMW・318isで参戦。3勝を挙げタイトルを獲得。1999年よりツーリズモ・アルヘンティナへも参戦。2000年のスーダメリカノ・デ・スーパーツーリズモでも8勝を挙げ再度タイトルを獲得した。2010年までアルゼンチンのツーリングカーレースなどに参戦を続け、2017年にフィアット・プント・アバルトカップに2レース限定復帰した。 レース戦績FIA ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
F1
全日本GT選手権
ル・マン24時間レース
南米ツーリングカー選手権
関連項目脚注
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