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オントンジャワ環礁

オントンジャワ環礁
Luangiua
NASAによる航空写真
地理
場所 太平洋南西部
座標 南緯5度16分 東経159度21分 / 南緯5.267度 東経159.350度 / -5.267; 159.350座標: 南緯5度16分 東経159度21分 / 南緯5.267度 東経159.350度 / -5.267; 159.350
島数 100以上
主要な島 ルアニウア、ペラウ
行政
マライタ州
最大都市 ルアニウア
人口統計
人口 1800(2006[1]年時点)
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オントンジャワの位置(太平洋内)
オントンジャワ
オントンジャワ
オントンジャワ環礁の位置

オントンジャワ環礁(オントンジャワかんしょう、英語: Ontong Java Atoll)は南西太平洋ソロモン諸島領の環礁。ルアンギウア(Luangiua)とも呼ばれる[2]。世界でも最大級の環礁である。ロード・ハウ環礁と呼ばれることもあるが、ロード・ハウ島との混乱を招きやすい。

概要

行政的にはソロモン諸島マライタ州の辺境部であり、この国の北端の地となっており、サンタイサベル島の北部から北北東250km程の位置に存在する。一番近い陸域はヌクマヌ環礁であり、オントンジャワ環礁北端から北に40km程しか離れておらず歴史的に密接に関係しているが現在はパプアニューギニア領となっている。

オントンジャワ環礁はおおむねブーツ型である。環礁の合計面積は1400km2ほどであるが、陸地面積は12km2程度である。122以上の小島が点在する。島は環礁州島であり、標高は低く、最高標高でも13m程度である。

おおよそ2000人が環礁に居住し、住民が多く住む村が2箇所あり、東端のルアニウア(Luaniua)島に約1200人、北東のペラウ(Pelau)島に約800人が居住しており、人口は密集している。

歴史

この島にはおおよそ2000年前にポリネシア人が定住を始めたとされる。主な文化と交易はヌクマヌ環礁の住民との間で行われ、両環礁の住民は多くの文化的類似性を共有している[3]

最初の欧州人による発見はスペイン人探検家のアルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラによる1568年2月1日の発見の可能性が非常に高い。彼らは環礁の島々をスペイン語で「聖燭祭の聖女の集まり」を意味する「Bajos de la Candelaria」として記している[4][5]。その後の欧州人による検証可能な発見は1643年のアベル・タスマンによるものであり、彼によってオントンジャワと名づけた。しかし、1791年のジョン・ハンターによる上陸まで島に足を踏み入れた欧州人はおらず、彼はこの環礁をロード・ハウ環礁と名づけている。1893年にドイツ帝国が環礁の諸島を併合し、1899年にイギリスに譲渡された。

現在の環礁の住民はココヤシとタロイモの栽培や漁業によって自給自足の生活をしている。2005年に禁止されるまで、主な収入源はナマコとニシキウズガイ属の貝の香港への輸出であった。 また、コプラの生産なども行っている。エリグロアジサシなど多種多数の海鳥が生息しており、繁殖地ともなっている。

住民

ルアニウアの大きな墓地、宣教師ジョージ・ブラウンによる撮影

オントンジャワは域外ポリネシアであり、ソロモン諸島に近いメラネシア諸島の位置にあるにもかかわらず、住民はポリネシア系の特性を保持している。以前は男女共に体中に精緻な刺青を入れていたとされる[6]。環礁内ではポリネシア諸語のエリス諸語に属するオントンジャワ語が使われており、2大人口集積地のルアニウアとペラウのそれぞれで方言が使われる[7]

19世紀半ばにイギリスの宣教師ジョージ・ブラウン英語版が島を訪れ、ポリネシア人の住民について書いており[8]、"Lua Niua"などの場所に触れている。彼はオントンジャワにおける二集団制の社会様式について記録しており、これに基づいて、サモアでも同様に族外婚集団がかつて存在していた考えられると推論している[9]

住民の最初の詳細な研究は1908年から1910年の間に行われたドイツ南洋科学遠征の間にドイツの民族誌学者Ernst SarfertとHans Dammによって行われた。遠征ではオントンジャワとヌクマヌの両環礁に訪れ、研究を行い、研究結果の"Luangiua und Nukumanu"は1931年に公表された。彼らは環礁の名前とされるロード・ハウもオントンジャワも間違っていると主張し、研究の中ではこの環礁をLuangiuaと呼んでいる。

ジャック・ロンドンは最初この環礁をウーロン(Oolong)環礁と呼んでいた[10]。後に彼は小説で以下のように書いている。

今まで誰もロード・ハウ、時にオントンジャワと呼ばれるここに来ていない。トーマス・クック&サン英語版はそこへの旅券を販売しておらず、旅客はその存在を夢見ない。白人の宣教師が海岸に上陸したことさえない。5000人の原住民は彼らが原始的であるのと同じくらいに平和的である。しかし、彼らは常に平和的なわけではない。水路誌英語版では彼らは敵対的で不実であるとしている。しかし水路誌を編纂した男は住民の心を動かした変化を聞いていない。住民はそんなに遠くない昔、大型バークを遮断し、二等航海士を残して全ての人手を殺した。この事件を生き延びた第二航海士は彼の同胞に報せをもたらした。3隻の交易スクーナーの船長は生き延びた第二航海士と共にロード・ハウに戻った。彼らは船を整然と礁湖の中に進め、白人男性のみが白人男性を殺すことを許され劣等種は干渉すべきではないという、白人男性の信条の説教を進めた。スクーナーは礁湖を行きつ戻りつ航海して、蹂躪して破壊した。狭い州島からの逃げ場はなく、避難するための茂みもなかった。島民の男性は即座に殺され、照準からは避けられなかった。村は焼かれ、カヌーは破壊され、鶏や豚は殺され、貴重なヤシの木が切り倒された。一ヶ月間これが続き、スクーナーは去った。が、白人の恐怖は島民の心に焼きつき、二度と再び十分体面に関わる無謀なことを行わなくなった。[11]

1927年にシドニー大学の人類学者イアン・ホグビン英語版が訪れており[12]、1934年に研究結果が発表された。

関連項目

  1. ^ Tim Bayliss-Smith et al. Managing Ontong Java: Social institutions for production and governance of atoll resources in Solomon Islands
  2. ^ Sarfert, Ernst, and Hans Damm. "Luangiua und Nukumanu." Ergebnisse der Südsee Expedition, 1908-1910. Hamburg 1931
  3. ^ Sarfert, Ernst, and Hans Damm. "Luangiua und Nukumanu." Ergebnisse der Südsee Expedition, 1908-1910. Hamburg 1931. Vol I
  4. ^ Sharp, Andrew The discovery of the Pacific Islands Oxford, 1960, pp.43,44.
  5. ^ Brand, Donald D. The Pacific Basin: A History of its Geographical Explorations The American Geographical Society, New York, 1967, p.133.
  6. ^ Tattoo history of Western Oceania
  7. ^ Ethnologue - Ontong Java Language
  8. ^ George Brown, Melanesians and Polynesians, p. 414, ISBN 978-1-152-66889-8
  9. ^ Introduction to the History of Religions - Handbooks on the History of Religions, Volume IV, Crawford Howell Toy
  10. ^ Gary Riedl & Thomas R. Tietze (editors), Jack London's Tales of Cannibals and Headhunters: Nine South Seas Stories by America's Master of Adventure ISBN 978-0-8263-3791-7
  11. ^ Jack London, Mauki.
  12. ^ Hogbin, H. Ian. "Transition Rites at Ontong Java." Oceania 1: 399-425. 1930

文献

  • Hogbin, H. Ian. "The Social Organization of Ontong Java." London 1931
  • Hogbin, H. Ian. "Transition Rites at Ontong Java." Oceania 1: 399-425. 1930
  • Sarfert, Ernst, and Hans Damm. "Luangiua und Nukumanu." Ergebnisse der Südsee Expedition, 1908-1910. Hamburg 1931

外部リンク

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