カーゴ・カルトカーゴ・カルト(cargo cult)とは、主としてメラネシアなどに存在する招神信仰である。いつの日か、先祖の霊・または神が、天国から船や飛行機に文明の利器を搭載して自分達のもとに現れる、という物質主義的な信仰である。直訳すると「積荷信仰(つみにしんこう)」。近代文明の捉え方について独特の形態をとることが特徴である。 特徴パプアニューギニアのマダン地区ボギア地方で起こったマンブ運動を研究した人類学者ケネルム・バリッジの著書『Mambu. A Melanesian Millennium』(1960年)などに基づくと、カーゴ・カルトの特徴は次のように整理される[1]。
歴史1919年、パプアニューギニアのガルフ地区に駐在していた行政官のもとへ、沿岸地域の村々で住民らが興奮状態にあるという報告が届いた。この報告によれば、村落に現れた先祖の霊が、カーゴを満載した大きな船で親族の霊が戻ってくるので、その受け入れ準備をするように告げ、指導者らはこれに従って歓迎の準備を命じ、白人と雇用契約を結んではならないと告げたという。住民の興奮状態は1920年5月22日付で沈静化した旨が記録されているが、この間には彼らが日常のルーティンを放棄したことで、生活は荒廃していったという。また、以後も同様の興奮状態が単発的に繰り返された。この後に人類学者F・E・ウィリアムズが行った調査の結果は、1923年に『ガルフ地区におけるヴァイララ狂信と土着儀礼の破壊』として発表された。これをきっかけに「ヴァイララ狂信」(Vailala Madness)という言葉が広く知られるようになり、後にはカーゴ・カルトの典型とみなされるようになった[1]。 カーゴ・カルトという言葉が初めて使われたのは、雑誌『パシフィック・アイランズ・マンスリー』(Pacific Islands Monthly)の1945年11月号に掲載されたノリス・メルビン・バード(Norris Mervyn Bird)の論考においてである。この論考では、カーゴ・カルトという概念とヴァイララ狂信を併置し、メラネシア各地で生じた類似の事例を包括する枠組みであるとした[1]。 人類学の分野で用語として定着したのは、ピーター・ワースレイの著作『千年王国と未開社会:メラネシアのカーゴ・カルト運動』(The Trumpet Shall Sound: A study of "cargo cults in Melanesia, 1957年)以後であり、これと同時に研究も本格化していくことになる。また、カーゴ・カルトを植民地状態から生じた社会的運動であったと初めて明確に主張したのもワースレイである。ワースレイはカーゴ・カルトを植民地主義的な経済的・政治的抑圧に対する未発達な形態の階級闘争、あるいは「異文化接触の合理的理解の運動」と位置づけたが、一方でさらに後年の研究においては、いわゆるカーゴ・カルトが政治的な組織と直接関係した事例は必ずしも多いわけではなく、またすべてのカーゴ・カルトが反植民地主義や反ヨーロッパ主義を特徴としたわけではないことが指摘された。例えば、バリッジが『Mambu』で取り上げたマンブ運動や、ピーター・ローレンスが著作『Road Belong Cargo』(1964年)で取り上げたヤリ運動は、ヨーロッパ人との関係を植民地状況においていかに再構築するかが目的であったとされる。ネイティブの信じる「同等性を原理とした互酬性の交換システム」において、ヨーロッパ人との不当な関係を解釈した場合、ヨーロッパ人と対等ではない以上は人間ではない、あるいは道徳的な欠陥を持つ存在となってしまう。そこで、ネイティブが持たないカーゴを獲得することが目的となり、ヨーロッパ人と対等の「新しい人間」存在へと変容するための運動が起こった。この中で対等者としての、いわば「聖痕」を与える、両者を包括、あるいは超越した「新しい人間」の祖型としてマンブなる存在が創造され、これを信仰するマンブ運動が生まれた。1960年代の研究では、包括的な研究よりも、むしろ特定のカーゴ・カルトと土着の伝統的な信仰との類似性が注目され、こうした中でいわゆるカーゴ・カルトの多くは、ヨーロッパ人にとっては奇異に写ったものの、実態は従来の宗教儀式のバリエーションにすぎないと解釈されることも多くなった[1]。 ジョン・フラム信仰バヌアツ・ニューヘブリデス諸島のタンナ島では、宣教師らが定めた規範を放棄し、伝統的な習慣に立ち戻ることによって、ジョン・フラムという人物から富がもたらされるという信仰がある。現在語られるところでは、ジョン・フラムが初めてタンナ島に現れたのは1939年であるという。彼の名は「ジョン・フロム・アメリカ」に由来するとも、白人や宣教師の影響を一掃する箒、すなわちブルームに由来するとも言われる。第二次世界大戦中に島民の多くがアメリカ軍の補助部隊に参加したこともあり、現在のジョン・フラム像にはアメリカ軍のイメージが重ねられている。そのため、戦後にはアメリカ軍のイメージを投影したシンボルや儀式が数多く考案された[2]。 また、イギリスのエジンバラ公フィリップをジョン・フラムの兄弟および積荷を積んだ飛行機の操縦者であるとして信仰の対象に含めている地域もある。 「カーゴ・カルト」概念に対する批判カーゴ・カルト研究が進むにつれて、歴史性とイデオロギー性を背景とする「カーゴ・カルト」という概念自体の有効性が問題化されるようになった。そして、世界的なポストモダン的思潮の最中にあって、トーテミズムに対して行われたような、カーゴ・カルトに対する脱構築の試みが現れ始めた[3]。 カーゴ・カルトの典型とされるヴァイララ狂信について、実際にこれが存在した時代に研究を行ったのはウィリアムズただ1人で、以後の研究も彼の著作に依拠せざるを得なかった。しかし、「植民地政府お抱えの人類学者」であったウィリアムズの研究は、植民地行政にとって不都合で説明不能でもあるネイティブの事象を「ヴァイララ狂信」というカテゴリーに囲い込むことで、彼らを「病理を呈している患者」に仕立て上げ、植民地支配を可能にし、正当化したと批判される[1]。 批判者の中でも特に先鋭的な論調としては、例えばナンシー・マクダウェル(Nancy McDowell)が主張する、カーゴ・カルトなる概念は西洋人の偏見が作り出した虚構のメラネシア文化であり、現実にはそのような文化は存在しないというものがある。この主張においては、メラネシアの人々のこの信仰は、突如現れた旧来の常識では理解不能な異文明を、旧来の常識をもってどうにか止揚した彼らなりの解釈のしかたであり、この思考自体は何ら突飛なものではなく全世界普遍の反応であって「カーゴ・カルト」とは人類普遍の考え方の一部を切り出して名前を付けただけのものであるとする[3]。 1950年代には、カーゴにはシンボルとしての土着的な意味が備わっていて、土着人は対象とされる品物以上の、何か特殊な価値を求めているという解釈が既に語られ始めていた[3]。カーゴ・カルトという概念が、植民地主義に対し生じたストレスやトラウマを根源とする多くの複雑かつ異なる社会的・宗教的運動全てを区別せず適用されてきたと批判する立場の人々は、信仰の目的はカーゴという物質的なものよりは、民族自決のように多用かつ不定形のものであったとする。ジョン・フラム信仰はカーゴ・カルトの典型とみなされることも多いが、バヌアツ文化センターの職員ジャン=パスカル・ワヘ(Jean-Pascal Wahé)は、しばしば語られる「座って助けを待つだけの物語」と、ジョン・フラムは無関係であると指摘する。ジョン・フラムは島民にとっての伝統の統一された象徴であり、外部からもたらされる変化ではなく、タンナ島民の文化的アイデンティティの象徴であるという[2]。 類似信仰
その他の用法この文化は物理学者リチャード・P・ファインマンのカリフォルニア工科大学での卒業式式辞で言及され、また彼の著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』に収録されたことでも知られる。この式辞でファインマンは、カーゴ・カルトの信者は外見上は正しく空港やヘッドセット、竹の「アンテナ」を作るが、飛行機は来ないと指摘した。ファインマンは、科学者もしばしばその愚に陥るが、そのような科学の形だけを真似ただけの、正直さに欠ける行為は「カーゴ・カルト・サイエンス」であり、尊敬にも支援にも値しないものだと主張した。 消費社会
ソフトウェア
関連作品
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク |