ジェイミー・ミューア
ジェイミー・ミューア(Jamie Muir、1942年11月30日 - )は、スコットランド出身の打楽器奏者、画家。 略歴エディンバラ生まれ。1960年代前半にエディンバラ芸術大学在籍中、当初はピアノを学び、別の学校ではフレンチホルンも勉強した。ジャズに興味を持ってトロンボーンと打楽器演奏を学び始め、トロンボーンを諦めると次にドラムをはじめ、練習では当初、ケニー・クラークやトニー・ウィリアムス等のジャズ・スタイルをコピーした。アルバート・アイラー、ファラオ・サンダースに興味を持ち始めるとミルフォード・グレイヴスの演奏に惹かれ打楽器の即興演奏を志向。地元バンドのアサシネイション・アテンプト(The Assassination Weapon)にトロンボーンで参加、フリー・ジャズを演奏し始めた。 1965年、エジンバラ芸術大学でエジンバラ・フェスティバルが開催され、彼はロンドンから出演したミュージシャンのバックで演奏した。バーニー・グリーンの演奏で客演ギタリストのデレク・ベイリーと共演。ベイリーからロンドンへ出てくるように勧められ、一週間にわたり振付師・舞踏家リンゼイ・ケンプの公演にベイリー、エヴァン・パーカーらと参加。またピート・ブラウン&ピブロクトに加入してパーカッションとドラムスを担当、フリーなバンド演奏スタイルで1968年7月まで在籍。 1968年、ベイリー、パーカー、ヒュー・デイヴィスとザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー(The Music Improvisation Company)を結成し、1970年8月に発表された同名デビューアルバムの制作に携わった。1969年7月には、ローリング・ストーンズがロンドンのハイド・パークで開催したフリー・コンサート[注釈 1]の観客の1人として、コンサートに出演したデビュー直後のキング・クリムゾンを目撃した。ピート・ブラウン・バタード・オーナメンツ(Pete Brown's Battered Ornaments)のエジンバラ・フェスティバルでの演奏にも参加。元コロシアムのジム・ローチェ[1](ギター)、ドン・ウェラー(サクソフォーン)、ジェイミー・ピータース(ベース)が結成したボリス(Boris)に誘われ[2]、過激で暴力的なパフォーマンスを披露した。1971年、ザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニーを離れ、ヘヴィ・アフリカン・エンヴェロープを率いてコンサート活動を開始した。 1972年、当時関わっていたアサガイで知り合ったアラン・ゴーウェンらとサンシップ(Sunship)を結成[3]。同年4月、キング・クリムゾンのロバート・フリップ[注釈 2]から連絡を受け、ジャム・セッションの後にキング・クリムゾンへ加入[4]。ライブ活動[5][6][7]の後にアルバム『太陽と戦慄』(1973年)の制作に参加した[注釈 3][8]。しかしインドの宗教家パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読んで深い影響を受け、キング・クリムゾンの管理会社であるE.G.マネージメントに脱退を申し入れた[9]。 その後、1980年頃までスコットランド、フランス、インドなどで仏教修行に入った。帰国後、友人から誘われて音楽活動を再開し、ベイリー[10]、パーカー[11]といくつかの作品を残している。1983年にはデヴィッド・カニンガムの呼びかけでマイケル・ジャイルズ[注釈 4]らと共に、ケン・マクマラン監督の映画"Ghost Dance"のサウンドトラックを制作した。この作品のCDは1995年に発売された[12][13]。 1980年代前半にはベイリーとの共作アルバム[10]やベイリーが結成したカンパニーのアルバム[14][15]のジャケットのアートを手掛けた。1980年代末にはシーケンサーや一部楽器以外の機材を渡米のために売り払ってしまい、この頃、画家に転身した。 ディスコグラフィキング・クリムゾン
その他
脚注注釈出典
引用文献
参考文献
関連項目外部リンク |