ジミー・コンツェルマン
ジミー・コンツェルマン(Jimmy Conzelman 1898年3月6日-1970年8月5日)はミズーリ州セントルイス出身のアメリカンフットボール選手。指導者。 アメリカンフットボールセントルイス・ワシントン大学ではハーフバックとしてプレーした。大学卒業後は、Great Lakes Navy teamに入り、1919年1月1日のローズボウルでチームメートのジョージ・ハラスと共に勝利した。1920年、ハラスに誘われて、ディケイター・ステイリーズ(現シカゴ・ベアーズ)に加入した[1]。 1921年よりロックアイランド・インデペンデンツに移り、開幕から11連敗した後、チームのヘッドコーチを兼任、残りシーズンを4勝2敗1分で終えた[2]。1922年、7試合インデペンデンツでプレーし4勝2敗1分の成績を残した後、ミルウォーキー・ハジャーズに選手兼コーチとして移り、2勝4敗3分の成績を残した[2]。1923年、シーズン途中にハル・エリクソンにヘッドコーチ職を譲りフルタイムでプレーするようになった。チームはこの年7勝2敗3分と成績を向上させた[2]。 1925年、デトロイトを本拠地とする新チーム、デトロイト・パンサーズのオーナーシップをNFLから100ドルで買い[2]、選手兼コーチ兼オーナーとなった[1]。チームは1925年、開幕から8勝1敗の成績をあげたが、感謝祭の日の試合でロックアイランドに3-6で敗れるなど8勝2敗2分、3位でシーズンを終えた。1926年には開幕から3連敗した後、4勝2分の成績をあげたが最後の3試合を連敗で終えて、4勝6敗2分でシーズンを終えた。シーズン終了と共にチームは解散した[2]。 1927年、プロビデンス・スティームローラーの選手兼コーチとなった。この年チームは8勝5敗1分の成績を残した[3]。クォーターバックの彼は1928年にひざを負傷したが、チームは8勝1敗2分でNFLチャンピオンとなった。1929年シーズン終了後、現役を引退した[4]。プロビデンスには1930年まで所属し[1]、26勝16敗6分の成績を残した[2]。 1932年から1939年まで8シーズン、母校のワシントン大学でヘッドコーチを務め、40勝35敗2分の成績を残した[5]。 1940年、シカゴ・カージナルスのヘッドコーチに就任し3シーズン務めた[4]。 彼がチームを去った後、カージナルスは1943年から1944年にかけて10連敗を喫した[6]。 1946年カージナルスに復帰、1947年にNFLチャンピオン、1948年にも11勝1敗で[2]ディビジョン優勝を果たしたが[1]NFLチャンピオンシップゲームでフィラデルフィア・イーグルスに0-7で敗れて連覇はならなかった[4][7]。 ヘッドコーチとしては87勝63敗17分の成績を残している[8]。 1964年にプロフットボール殿堂に選出された[2]。 野球1922年にマイナーリーグのロックアイランド・アイランダーズでプレー、104試合に出場し、打率.244、本塁打1、外野手としてプレーしている[9]。 1944年、メジャーリーグベースボールのセントルイス・ブラウンズのフロント入りした[10]。 死去1970年8月5日、肺がんのため亡くなった。 脚注
外部リンク |