ジュリア・ウォード・ハウ
ジュリア・ウォード・ハウ(Julia Ward Howe、1819年5月27日 - 1910年10月17日)は、アメリカ合衆国の著名な奴隷制度廃止運動家・政治活動家。リパブリック讃歌の作詞者として有名な詩人でもある。 来歴生い立ちと家系ジュリア・ウォードは父サミュエル・ウォード(1786年5月1日 - 1839年11月27日)と母ジュリア・ラッシュ・カトラーの7人の子供の内、第4子としてニューヨーク市で生まれた。兄弟の1人にサミュエル・カトラー・ウォード (Samuel Cutler Ward) がおり、妹の娘(姪)には駐日英国公使夫人のメアリー・フレイザーがいる。父親は裕福な銀行家だった。母親は彼女が5歳の時に他界した。幼少からイタリア語、フランス語、ドイツ語、ギリシア語と多くの言語を学んだ。 彼女の父方の祖父母は大陸軍の中佐サミュエル・ウォード(1756年11月17日 - 1832年8月16日)とフィービー・グリーン(1828年10月11日に死去)、母方の祖父母はベンジャミン・クラークとサラ・ミッチェル・カトラーである。 父方の祖父サミュエル・ウォード中佐は、ロードアイランド州の総督で、後に大陸会議の代表となったサミュエル・ウォード(1725年5月27日 - 1776年3月26日)とアンナ・レイ(1770年12月3日没)の息子である。父方の祖母フィービー・グリーンはロードアイランド州知事ウィリアム・グリーン (William Greene、1731年8月16日 - 1809年11月30日)とキャサリン・レイの娘であった。 結婚と子供達1843年、ギリシャ独立戦争の英雄の1人でシェブ (Chev) の愛称を持つ医学博士のサミュエル・グリドリー・ハウ (Samuel Gridley Howe) と結婚した。ハウはパーキンス盲学校の初代校長である。夫妻はサウスボストンに自宅を建て、6人の子供達が生まれ(その内の5人が成人している)、自由土地党で活動した。彼女はユニテリアン派教会 (American Unitarian Association) に所属していた。 社会的活動ハウがウィリアム・ステッフ (1830年 - 1890年) の既存の曲に歌詞を付けた「リパブリック讃歌」は1862年のアトランティック・マンスリー (the Atlantic Monthly) で最初に発表され、直ちに南北戦争において北軍の間で最も人気の高い歌の1つとなった。 1870年、ハウは「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation) と共に、初めて「母の日」を宣言した。 戦争後は平和主義と女性参政権の運動に集中した。1872年から1879年まで、ルーシー・ストーン (Lucy Stone) とヘンリー・ブラウン・ブラックウェル (Henry Browne Blackwell) の「Woman's Journal」の編集を手伝った。 死去1910年10月17日、ハウはロードアイランド州ポーツマス、オークグレンの自宅で亡くなった[1]。91歳であった。彼女はマサチューセッツ州ケンブリッジのマウント・オーバン・セメタリー (Mount Auburn Cemetery) に埋葬された。 栄誉1908年1月28日、ハウはアメリカ芸術文学アカデミー (American Academy of Arts and Letters) に選ばれた初の女性となった。1970年には没後60年にしてソングライター殿堂 (Songwriters Hall of Fame) 入りを果たした。 ハウの肖像は1987年にアメリカで発行された14セント切手の図柄になっている。 シカゴ・オースティン・コミュニティのジュリア・ウォード・ハウ・スクール・オブ・エクセレンス(幼稚園から小学校までの8年間の学校)は彼女の栄誉を讃え名付けられた。 ロードアイランド州オークグレンの彼女の家は1978年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に加えられた。 作品
関連資料
脚注
外部リンク作品と文書
伝記
栄誉
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