ステヴァン・ヨヴェティッチ
ステヴァン・ヨヴェティッチ(セルビア語: Cтeвaн Јоветић / Stevan Jovetić、1989年11月2日 - )は、モンテネグロ・ポドゴリツァ出身のサッカー選手。モンテネグロ代表。ポジションはFW。欧州5大リーグ全てのリーグ戦で得点を記録した21世紀で初めての選手である。 クラブ経歴下部組織~プロ選手2000年から2003年までムラドスト・ポドゴリツァのユースチームで育った。2003年、ヨヴェティッチが13歳の時にパルチザン・ベオグラードに加入。下部組織に在籍にながらも、2006年4月8日に行われた国内リーグ戦の対ヴォツトヴァック戦において、才能を見抜いていたトップチームのユーゲン・レーバー監督によってわずか16歳でトップリーグにデビューした。2007年8月2日にはUEFAカップ、NKズリニスキ戦においてハットトリックを達成、5-0の勝利に貢献した。同月、パルチザン・ベオグラードと正式にプロ契約を結んだ。この頃にはすでにヨヴェティッチの名は、その才能とともにヨーロッパに認知されており、10月頃にはマンチェスター・ユナイテッドFCやレアル・マドリードといったビッグクラブが獲得に動いていた[3]。2007年12月にはイギリスの大衆紙であるザ・サンに、「ヨーロッパにおける20歳以下選手のトップ20」に選ばれている[4]。2008年1月にはレアル・マドリードの練習に参加し、ループシュートを決めるとなどその大物ぶりを見せ付けた。パルチザンはヨヴェティッチを引き止めるために(あるいは移籍金を引き上げるために)、同時期に冬の移籍市場でボルシア・ドルトムントへ移籍していったキャプテンのアントニオ・ルカヴィナの後釜に18歳のヨヴェティッチをキャプテンに据えた。セルビアのリーグ戦では17試合に出場して11ゴール、合計60試合で24ゴールを記録した。 フィオレンティーナ時代2008年2月に、ACFフィオレンティーナのスポーツディレクターであるパンタレオ・コルヴィーノに誘われメディカルチェックを受ける。その前月にレアル・マドリードの練習に参加しており、同クラブに移籍が確実だと思われていた最中であった。同年4月に正式にサインを交わした。移籍金は800万ユーロ。コルヴィーノは資金面では及ばない他のビッグクラブとの差異をアピールするためにヨヴェティッチと両親を一週間フィレンツェに招待し街の「美しさ」を訴えた。彼らは街の美しさを賞賛し、素晴らしい住まいやトスカーナ料理を絶賛、フィレンツェ市民の愛情に夢中になったという[5]。 2008-09シーズンが始まると、チーム内で絶対的なエースであるアドリアン・ムトゥの控えというポジションでスタートした。後半戦はムトゥの怪我による長期離脱もあり出場機会を増やし、2009年4月5日に行われた、カンピオナートのアタランタ戦においてPKによりセリエA初得点をする。試合に出場すれば随所に才能の片鱗を披露したが、得点に結びつけることは困難であり移籍初年度はリーグ戦で1得点するに留まった。 2009-10シーズンは開幕時から好調ぶりを披露する。2009年8月26日には、UEFAチャンピオンズリーグの予備予選の対スポルティングCP戦において、チームを本戦に導く同点ゴールを決め[6]、続くカンピオナートでのパレルモ戦、サンプドリア戦と続けざまに得点を記録、移籍1年目の懸案であった得点を量産する。同時期にはムトゥの不調や怪我、またチェーザレ・プランデッリ監督がヨヴェティッチを活かすシステムに本格的に変更したことなどから出場機会を増やしている。2009年9月30日に行われたUEFAチャンピオンズリーグのリヴァプール戦ではドッピエッタ(2得点)を記録しチームの勝利 (2-0) に貢献した。その後は怪我によりシーズン前半戦の約半数を離脱したが、チャンピオンズリーグなどの活躍により12月には2009年のモンテネグロ年間最優秀選手[7] に選ばれた。 2010-11シーズンは8月に行われたプレシーズンでのキャンプ中に右膝十字靭帯を損傷し、全治8か月と診断された。2011年の春に復帰する予定だったが、完治の目処が立たず、結局このシーズンは公式戦出場はゼロに終わった[8]。怪我は6月にようやく完治し、4日のブルガリア代表戦で復帰を果たした。 2011-12シーズン開幕前のキャンプ中に新シーズンの副キャプテンとなることが公式に発表された[9]。同シーズン中の10月31日にクラブとの契約を2016年6月30日まで延長したと公式に発表された[10]。 マンチェスター・シティ時代2012-13シーズン終了後、移籍を志望し、ユヴェントスやアーセナルが獲得に動いた。2013年7月18日、ヨヴェティッチのマンチェスター・シティ移籍がクラブ間合意に達したとフィオレンティーナが発表[11]。背番号はパルチザン在籍時に付けていた35番を選択。 2014-15シーズンはプレシーズンマッチから好調なプレーを見せ、開幕してからも調子を維持していたが、度重なる怪我に泣き、遂にはCL登録メンバーからも外されてしまう。事実上の戦力外となり、シーズン序盤からイタリアへの帰還が噂され、ASローマやユヴェントスFC、古巣のフィオレンティーナへの移籍が何度も報道された。 インテル時代2015年7月31日、インテル・ミラノへ1年半の買取義務オプション付きレンタルで移籍。契約にはレンタル期間が終了したのちに2019年までの新契約を結ぶ内容が含まれており[12]、推定移籍金は合計1500万ユーロ。当初背番号はマンチェスター・シティで着用していた35番だったが、マテオ・コヴァチッチのレアル・マドリード移籍に伴い空き番号となった10番を着用することになった。10番はロベルト・バッジョやヴェスレイ・スナイデルが着用していた番号でもある。2015年8月23日のセリエA開幕戦・アタランタBC戦で前半に負傷したマウロ・イカルディとの交代でピッチに入りインテルデビューを飾り、後半アディショナルタイムにインテルでの初ゴールとなる決勝点を挙げ勝利に貢献。8月30日のカルピFC戦でも後半43分に決勝点を記録するなど前半戦から好調を維持していたが、10月に負傷して以降は失速気味になり最終的にシーズン中に3度戦線を離脱し[13]、6得点でシーズンを終えた。 翌2016-17シーズン開幕前に監督がフランク・デ・ブールに就任すると出場機会が減少したが、2016年9月11日のペスカーラ戦でシーズン初の公式戦出場を果たしたため、インテル移籍の際に結ばれた契約条項によって本来の契約より半年早くインテルへ完全移籍を果たした[14]。11月にフランク・デ・ブールが解任されステファノ・ピオリが就任した後も状況は変わらなかった。 セビージャ時代2017年1月10日、セビージャFCへシーズン終了後の買取オプション付きレンタルで移籍。買取オプションを行使した場合は1400万ユーロの移籍金が発生する[15]。1月12日に行われたコパ・デル・レイ5回戦・レアル・マドリード戦では途中出場でスペインデビューを果たすと同時に初得点も記録。1月15日にはリーガ・エスパニョーラ第18節・レアル・マドリード戦でリーガデビューを果たし決勝点を挙げた[16]。公式戦7ゴールを挙げる活躍を見せた。 モナコ時代2017年8月29日、ASモナコと4年契約で加入することが発表された[17]。 ヘルタ時代2021年7月27日、ヘルタ・ベルリンと2年契約を締結した[18]。なおこの移籍でフロリン・ラドチョウ、クリスティアン・ポウルセンに続く史上3人目となる、ヨーロッパ主要5リーグすべてのリーグでプレーする選手となった[19]。2021-22シーズンはリーグ戦18試合出場で6得点を挙げ、ヨーロッパ主要5リーグすべてで得点を決めている。この快挙はヨヴェティッチ含めてラドチョウの2人しかいない(ポウルセンはプレミアリーグ、リーグ・アンでは無得点、ピエール=エメリク・オーバメヤンはACミランに在籍したことはあるがリーグ戦の出場はない)。[20]。 オリンピアコス時代代表歴2006年のUEFA U-17欧州選手権ではU-17セルビア・モンテネグロ代表のメンバーに名を連ねた[22]。セルビア・モンテネグロ代表の解体後はモンテネグロ代表を選択しており、2007年にはU-21モンテネグロ代表に招集され、同チームでキャプテンを務めた。 2007年3月に初の国際試合に臨むモンテネグロ代表のメンバーとしてA代表に初招集された。2008年8月20日のハンガリー戦で代表初ゴールを記録した。 人物・プレースタイルデヤン・サビチェビッチ2世と称されるが、ことプレースタイルは異なる。サビチェビッチはドリブラーであったのに対し、ヨヴェティッチは得点能力に優れたセカンド・ストライカーでもあり、ボックス内で虎視眈々とゴールを狙う点取り屋である。フィジカルにも優れ豪快なプレーを持ち味とするが、柔らかなロビングや、相手ディフェンダーが予測することが困難な緩急自在のダイレクトパスを操り、また前線からのチェイシングを怠らずメンタル面や戦術理解度も優れており、現代サッカーに通用しうるモダンなファンタジスタである[1]。2011年7月から2013年7月までフィオレンティーナの副キャプテンであった[9]。 負傷が多い選手として知られており、マンチェスター・シティ時代には2年間で6回負傷離脱している[13]。シティ在籍時に監督を務めていたマヌエル・ペジェグリーニはヨヴェティッチについて「素晴らしい選手だが負傷が多すぎた」と語っている[23]。 エピソード
個人成績クラブ
代表での出場試合数
代表での得点
獲得タイトルクラブパルチザン
マンチェスター・シティ
個人
脚注
外部リンク
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