スペイン領フィリピン総督
スペイン領フィリピン総督(スペインりょうフィリピンそうとく、スペイン語: Gobernador-General de las Filipinas/Capitán General de las)とは、1565年から1898年まで設置されていたスペイン統治時代のフィリピン(スペイン領東インド)における行政長官である。 ヌエバ・エスパーニャ下の総督(1565年 - 1761年)1565年から1898年までフィリピンはスペイン統治下にあった。1565年から1821年までフィリピン総督は国会の推薦に基づきヌエバ・エスパーニャ副王によって任命され、スペイン国王の名代としてフィリピンを統治した。総督の死亡や総督交代などで総督職に空白が生じた場合はマニラのアウディエンシアがそのメンバーの中から新総督の着任まで総督代理を立てた。 1821年にフィリピン総督はヌエバ・エスパーニャ副王の管轄下ではなくなり、以前ヌエバ・エスパーニャ副王が果たしていた役割はマドリード政府が直接担うこととなり、フィリピン総督はスペイン国王直属の存在となった。 一時就任 レアル・アウディエンシア
イギリス占領期の総督 |
代数 | 肖像 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 君主 |
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43 | シモン・デ・アンダ・イ・サラザール (Simón de Anda y Salazar) (在バコロの仮総督) |
1762年10月6日 | 1764年2月10日 | カルロス3世 ボルボン家 (1759年8月10日 – 1788年12月14日) | |
44 | ドーソン・ドレイク (Dawsonne Drake) |
1762年11月2日 | 1764年5月31日 | ジョージ3世 ハノーヴァー家 (1760年10月25日 – 1820年1月29日) |
ヌエバ・エスパーニャ下の総督(1764年 - 1821年)
1764年にイギリスはフィリピンをスペインに返還し、フィリピン総督フランシスコ・ハビエル・デ・ラ・トーレはヌエバ・エスパーニャ副王の権限の下でのフィリピン統治に戻った。ナポレオン戦争期にはスペインがフランス第一帝政に支配されたため、フィリピンは事実上フランスの植民地と化していた。
代数 | 肖像 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | ヌエバ・エスパーニャ副王 | スペイン王 |
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45 | フランシスコ・ハビエル・デ・ラ・トーレ (Francisco Javier de la Torre) |
1764年3月17日 | 1765年7月6日 | 初代クルイリャス侯爵ホアキン・デ・モンセラート (1760年10月5日 – 1766年8月24日) |
カルロス3世 ボルボン家 (1759年8月10日 – 1788年12月14日) | |
46 | ホセ・アントニオ・ラオン・グティエレス (José Antonio Raón Gutiérrez) |
1765年7月6日 | 1770年7月 | |||
初代クロワ侯爵カルロス・フランシスコ・デ・クロワ (Carlos Francisco de Croix) (1766年8月24日 – 1771年9月22日) | ||||||
(43) | シモン・デ・アンダ・イ・サラザール (Simón de Anda y Salazar) |
1770年7月 | 1776年10月30日 | |||
アントニオ・マリア・デ・ブカレリ・イ・ウルスア (1771年9月22日 – 1779年4月9日) | ||||||
47 | ペドロ・デ・サリオ (Pedro de Sarrio) |
1776年10月30日 | 1778年7月 | |||
48 | ホセ・バスコ・イ・バルガス (José Basco y Vargas) |
1778年7月 | 1787年9月22日 | |||
フランシスコ・ロマ・イ・ロセル (1779年4月10日 – 1779年8月22日) | ||||||
マルティン・デ・マヨルガ・フェラー (1779年8月23日 – 1783年4月28日) | ||||||
マティアス・デ・ガルベス・イ・ガラルド (1783年4月28日 – 1784年10月20日) | ||||||
ビセンテ・デ・ヘレラ・イ・リベロ (1784年10月20日 – 1785年6月17日) | ||||||
初代ガルベス伯爵ベルナルド・デ・ガルベス (1785年6月17日 – 1786年11月30日) | ||||||
エウセビオ・サンチェス・パレハ・イ・ベレニョ (1786年11月30日 – 1787年5月8日) | ||||||
Alonso Núñez de Haro y Peralta (Archbishop of Mexico) (May 8, 1787 – August 16, 1787) | ||||||
Manuel Antonio Flórez Maldonado (August 16, 1787 – October 16, 1789) | ||||||
(47) | ペドロ・デ・サリオ (Pedro de Sarrio) |
1787年9月22日 | 1788年7月1日 | |||
49 | フェリクス・イグナシオ・フアン・ニコラス・アントニオ・ホセ・ホアキン・ブエナベントゥラ・ベレンゲル・デ・マルキーナ・イ・フィツヘラルド (Félix Ignacio Juan Nicolás Antonio José Joaquín Buenaventura Berenguer de Marquina y FitzGerald) |
1788年7月1日 | September 1, 1793年9月1日 | |||
カルロス4世 ボルボン家 (1788年12月14日 – 1808年3月19日) | ||||||
第2代レビジャ・ヒヘド伯爵フアン・ビセンテ・デ・グエメス (1789年10月17日 – 199年7月11日) | ||||||
50 | ラファエル・マリア・デ・アギラール・イ・ポンセ・デ・レオン (Rafael María de Aguilar y Ponce de León) |
1793年9月1日 | 1806年8月7日 | |||
初代ブランシフォルテ侯爵ミゲル・デ・ラ・グルア・タラマンカ (1794年7月12日 – 1798年5月31日) | ||||||
初代サンタ・フェ侯爵ミゲル・ホシ・デ・アサンサ(1798年5月31日 – 1800年4月30日) | ||||||
フェリクス・ベレンゲル・デ・マルキナ (1800年4月30日 – 1803年1月4日) | ||||||
ホセ・デ・イトゥリガライ (1803年1月4日 – 1808年9月16日) | ||||||
51 | |
マリアノ・フェルナンデス・デ・フォルゲラス (Mariano Fernández de Folgueras) |
1806年8月7日 | 1810年3月4日 | ||
ペドロ・デ・ガリバイ (1808年9月16日 – 1809年7月19日) |
フェルナンド7世 ボルボン家 (1808年3月19日 – 1808年5月6日) | |||||
Francisco Javier de Lizana y Beaumont (Archbishop of Mexico) (July 19, 1809 – May 8, 1810) |
ホセ1世 ボナパルト家 (1808年6月6日 – 1813年12月11日) | |||||
52 | マヌエル・ゴンサレス・デ・アギラール (Manuel Gonzalez de Aguilar |
1810年3月4日 | 1813年9月4日 | Pedro Catani (May 8, 1810 – September 14, 1810) | ||
初代レウニオン・デ・ヌエバ・エスパーニャ侯爵フランシスコ・ハビエル・ベネガス(1810年9月14日 – 1813年3月4日) | ||||||
初代カルデロン伯爵フェリクス・カジェハ(1813年3月4日 – 1816年9月20日) | ||||||
53 | ホセ・ガルドキ・デ・ハラベイティア (José Gardoqui Jaraveitia) |
1813年9月4日 | 1816年12月10日 | |||
初代ベナディート伯爵フアン・ルイス・デ・アポダカ (1816年9月20日 – 1821年7月5日) |
フェルナンド7世 ボルボン家 (1813年12月11日 – 1833年9月29日) | |||||
(51) | マリアノ・フェルナンデス・デ・フォルゲラス (Mariano Fernández de Folgueras) |
1816年12月10日 | 1821年9月15日 | |||
Francisco Novella Azabal Pérez y Sicardo (July 15, 1821 – July 21, 1821) | ||||||
フアン・オドノフ (1821年7月21日 – 1821年9月28日) |
スペイン政府の直接監督下の総督(1821年 - 1898年)
1821年のメキシコ独立革命後、メキシコは独立してスペインの一部ではなくなった。ヌエバ・エスパーニャ副王位も廃止された。その結果、フィリピン総督はヌエバ・エスパーニャ副王管轄下から本国政府(スペイン王冠)に直属する地位となった。
代数 | 肖像 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | スペイン国王 |
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(51) | マリアノ・フェルナンデス・デ・フォルゲラス (Mariano Fernández de Folgueras) |
1821年9月16日 | 1822年10月30日 | フェルナンド7世 ボルボン家 (1813年12月11日 – 1833年9月29日) | |
54 | フアン・アントニオ・マルティネス (Juan Antonio Martínez) |
1822年10月30日 | 1825年10月14日 | ||
55 | マリアノ・リカフォルト・パラシオ・イ・アバルカ (Mariano Ricafort Palacín y Abarca) |
1825年10月14日 | 1830年12月23日 | ||
56 | パスクワル・エンリレ・イ・アルセド (Pascual Enrile y Alcedo) |
1830年12月23日 | 1835年3月1日 | ||
イサベル2世 ボルボン家 (1833年9月29日 – 1868年9月30日) | |||||
57 | ガブリエル・デ・トレス (Gabriel de Torres) |
1835年3月1日 | 1835年4月23日 | ||
58 | ホアキン・デ・クラーメ (Joaquín de Crame) |
1835年4月23日 | 1835年9月9日 | ||
59 | ペドロ・アントニオ・サラザール・カスティーリョ・イ・バロナ (Pedro Antonio Salazar Castillo y Varona) |
1835年9月9日 | 1837年8月27日 | ||
60 | アンドレス・ガルシア・カンバ (Andrés García Camba) |
1837年8月27日 | 1838年12月29日 | ||
61 | ルイス・ラルディサバル (Luis Lardizábal) |
1838年12月29日 | 1841年2月14日 | ||
62 | マルセリノ・デ・オラー・レクンベリ (Marcelino de Oraá Lecumberri) |
1841年2月14日 | 1843年6月17日 | ||
63 | フランシスコ・デ・パウラ・アルカラ・デ・ラ・トレ (Francisco de Paula Alcalá de la Torre) |
1843年6月17日 | 1844年7月16日 | ||
64 | 初代マニラ伯爵ナルシソ・クラベリア・イ・サルドゥア | 1844年7月16日 | 1849年12月26日 | ||
65 | アントニオ・マリア・ブランコ (Antonio María Blanco) |
1849年12月26日 | 1850年7月29日 | ||
66 | ラ・ソラーナ侯爵フアン・アントニオ・デ・ウルビストンド | 1850年7月29日 | 1853年12月20日 | ||
67 | ラモン・モンテロ・イ・ブランディノ (Ramón Montero y Blandino) |
1853年12月20日 | 1854年2月2日 | ||
68 | マヌエル・パビア・イ・レイシー (Manuel Pavía y Lacy) |
1854年2月2日 | 1854年10月28日 | ||
(67) | ラモン・モンテロ・イ・ブランディノ (Ramón Montero y Blandino) |
1854年10月28日 | 1854年11月20日 | ||
69 | マヌエル・クレスポ・イ・セブリアン (Manuel Crespo y Cebrían) |
1854年11月20日 | 1856年12月5日 | ||
(67) | ラモン・モンテロ・ブランディノ (Ramón Montero y Blandino) |
1856年12月5日 | 1857年3月9日 | ||
70 | フェルナンド・デ・ノルサガライ・イ・エスクデロ (Fernándo Norzagaray y Escudero) |
1857年3月9日 | 1860年1月12日 | ||
71 | ラモン・マリア・ソラノ・イ・Llanderal ((Ramón María Solano y Llanderal) |
1860年1月12日 | 1860年8月29日 | ||
72 | フアン・ヘレラ・ダビア (Juan Herrera Dávila) |
1860年8月29日 | 1861年2月2日 | ||
73 | ホセ・ニコラス・フランシスコ・パブロ・レメリー・エ・イバロラ・ネイ・イ・ゴンサレス (José Nicolas Francisco Pablo Lemery é Ibarrola Ney y González) |
1861年2月2日 | 1862年7月7日 | ||
74 | サルバドル・バルデス (Salvador Valdés) |
1862年7月7日 | 1862年7月9日 | ||
75 | ラファエル・デ・エチャグェ・イ・ベルミンガム (Rafaél de Echagüe y Bermingham) |
1862年7月9日 | 1865年3月24日 | ||
76 | ホアキン・デル・ソラル・エ・イバニェス (Joaquín del Solar e Ibáñez) |
1865年3月24日 | 1865年4月25日 | ||
77 | フアン・デ・ララ・エ・イリゴイェン Juan de Lara e Irigoyen |
1865年4月25日 | 1866年7月13日 | ||
78 | ホセ・ラウレアーノ・デ・サンス・イ・ポセ (José Laureano de Sanz y Posse) |
1866年7月13日 | 1866年9月21日 | ||
79 | フアン・アントニオ・オソリオ (Juan Antonio Osorio) |
1866年9月21日 | 1866年9月27日 | ||
(76) | ホアキン・デル・ソラル・エ・イベニェス (Joaquín del Solar e Ibáñez) |
1866年9月27日 | 1866年10月26日 | ||
80 | ホセ・デ・ラ・ガンダラ・イ・ナバロ (José de la Gándara y Navarro) |
1866年10月26日 | 1869年6月7日 | ||
空位 | |||||
81 | マヌエル・マルドナド (Manuel Maldonado) |
1869年6月7日 | 1869年6月23日 | ||
82 | カルロス・マリア・デ・ラ・トレ・イ・ナバセラダ (Carlos María de la Torre y Navacerrada) |
1869年6月23日 | 1871年4月4日 | ||
アマデオ1世 サヴォイア家 | |||||
83 | ラフェエル・ジェロニモ・カイエターノ・イスキエルド・イ・グティエレス (Rafael Gerónimo Cayetano Izquierdo y Gutiérrez) |
1871年4月4日 | 1873年1月8日 | ||
84 | マヌエル・マククロン (Manuel MacCrohon) |
1873年1月8日 | 1873年1月24日 | ||
85 | フアン・アラミノス・イ・ビバル (Juan Alaminos y Vivar) |
1873年1月24日 | 1874年3月17日 | ||
空位 | |||||
- | マヌエル・ブランコ・バルデラマ (Manuel Blanco Valderrama) (代理) |
1874年3月17日 | 1874年6月18日 | ||
86 | ホセ・マルカンポ・イ・モンヘ (José Malcampo y Monje) |
1874年6月18日 | 1877年2月28日 | ||
アルフォンソ12世 ボルボン家 (1874年12月29日 – 1885年11月25日) | |||||
87 | ドミンゴ・モリノネス・イ・ムリーリョ (Domingo Moriones y Murillo) |
1877年2月28日 | 1880年3月20日 | ||
88 | ラファエル・ロドリゲス・アリアス (Rafael Rodríguez Arias) |
1880年3月20日 | 1880年4月15日 | ||
89 | 初代エステラ侯爵フェルナンド・プリモ・デ・リベラ・イ・ソブレモンテ (Fernando Primo de Rivera y Sobremonte) |
1880年4月15日 | 1883年3月10日 | ||
- | エミリオ・モリンス・イ・レマール (Emilio Molíns y Lemaur) (代理) |
1883年3月10日 | 1883年4月7日 | ||
90 | ホアキン・ホベリャール・イ・ソレル (Joaquín Jovellar y Soler) |
1883年4月7日 | 1885年4月1日 | ||
- | エミリオ・モリンス・イ・レマール (Emilio Molíns y Lemaur) (代理) |
1885年4月1日 | 1885年4月4日 | ||
91 | エミリオ・テレロ・イ・ペリナト (Emilio Terrero y Perinat) |
1885年4月4日 | 1888年4月25日 | ||
アルフォンソ13世 ボルボン家 (1886年5月17日 – 1898年8月14日) | |||||
- | アントニオ・モルト・イ・ディアス・ベリオ (Antonio Moltó y Díaz Berrio) (代理) |
1888年4月25日 | 1888年6月4日 | ||
- | フェデリコ・ロバトン・イ・プリエト (Federico Lobatón y Prieto) (代理) |
1888年6月4日 | 1888年6月5日 | ||
92 | バレリアノ・ウェイレル・イ・ニコラウ (Valeriano Weyler y Nicolau) |
1888年6月5日 | 1891年11月17日 | ||
93 | エウロヒオ・デスポホル・イ・デュセイ | 1891年11月17日 | 1893年3月1日 | ||
- | フェデリコ・オチャンド・イ・チュミリャス (Federico Ochando y Chumillas)(代理) |
1893年3月1日 | 1893年5月4日 | ||
94 | 初代ペニャ・プラタ侯爵ラモン・ブランコ・エレナス・リエラ・イ・ポロ (Ramón Blanco Erenas Riera y Polo) |
1893年5月4日 | 1896年12月13日 | ||
- | 初代ポラビエハ侯爵カミロ・ガルシア・デ・ポラビエハ (代理) |
1896年12月13日 | 1897年4月15日 | ||
- | ホセ・マリア・フリアン・デ・ラチャンブレ・イ・ドミンゲス (José María Julián de Lachambre y Domínguez (代理) |
1897年4月15日 | 1897年4月23日 | ||
95 | 初代エステラ侯爵フェルナンド・プリモ・デ・リベラ・イ・ソブレモンテ (Fernando Primo de Rivera y Sobremonte) |
1897年4月23日 | 1898年4月11日 | ||
96 | バスリオ・アウグスチン・イ・ダビラ (Basilio Augustín y Dávila)[1] |
1898年4月11日 | 1898年7月24日 | ||
- | フェルミン・ハウデネス・イ・アルバレス[1] (Fermín Jáudenes y Álvarez) (代理) |
1898年7月24日 | 1898年8月13日 | ||
- | フランシスコ・リゾ・イ・ラミレス[1] (Francisco Rizzo y Ramírez (代理) |
1898年8月13日 | 1898年9月 | ||
- | ディエゴ・デ・ロス・リオス・イ・ニコラウ[1] (Diego de los Ríos y Nicolau) (代理) |
1898年9月 | 1899年6月3日 |
1898年の米西戦争のスペインの敗戦により約330年に及んだスペインのフィリピン植民地統治は終焉し、アメリカ合衆国によるフィリピン植民地統治が開始された[2]。アメリカ統治時代の総督についてはアメリカ領フィリピンの総督・高等弁務官を参照。
脚注
- ^ a b c d Peterson 2007, p. 11.
- ^ David P. Barrows; The Governor-General of the Philippines under Spain and the United States; The American Historical Review Vol. 21, No. 2 (Jan., 1916), pp. 288-311 (PDF)
参考文献
- 京大東洋史辞典編纂会(編) 『新編東洋史辞典』 東京創元社、1980年
- 鈴木静夫・早瀬晋三(編) 『フィリピンの事典』 同朋舎出版、1992年 ISBN 4810408523
- 秦郁彦(編) 『世界諸国の制度・組織・人事』 東京大学出版会、2001年 ISBN 4130301225
- Don Peterson (2007-2nd Qtr), 1898: Five Philippine Governors-General Serve Rapid Fire Terms, Philippine Philatelic Journal.
関連項目
- フィリピン総督領
- アメリカ領フィリピン総督・高等弁務官
- フィリピンの大統領
- マラカニアン宮殿 - 歴代総督の別邸として使用され現在は大統領官邸。