セロ・ポルテーニョ
クルブ・セロ・ポルテーニョ(スペイン語: Club Cerro Porteño)は、パラグアイの首都アスンシオンのアバリオ・オブレーロ地区を本拠地とするサッカークラブである。 概要1912年創設。プリメーラ・ディビシオンで29回優勝しており、パラグアイでもっとも人気のあるクラブの1つである[1]。ラ・オージャ(鍋)という愛称で知られる約45,000人収容のエスタディオ・ヘネラル・パブロ・ロハスをホームスタジアムとしている。 歴史クラブ名称は1811年1月19日にブエノスアイレス軍(ポルテーニョス、「港の人」の意味)とパラグアイ軍の間で行なわれた「セロ・ポルテーニョの戦い」に由来している。まだスペインの植民地だったパラグアイ軍はスペイン本国政府に見放されたが、パラグアイ植民地政府によって戦闘が続けられ、ブエノスアイレス軍から大勝利を収めた。この戦闘はセロ・ムバエ(Cerro Mbaé、ムバエの丘)で行なわれ、パラグアイ軍の歴史のハイライトとなった。 1912年10月1日、スサーナ・ヌニェスと若者グループによって設立された。この時期のパラグアイはコロラド党とリベラル党というふたつの政党が激しく対立し、政府が不安定な緊張状態にあった。このため、設立者は両党の政党カラーをクラブカラーに使用することを決定し、パラグアイ人の団結と友好の象徴として、赤色(コロラド党)と青色(リベラル党)がユニフォームに用いられた。やがてシャツには白色も使用され、パラグアイ国旗の三色(赤・青・白)がそろった。1913年に初のリーグ優勝を飾ると、1918年の全国選手権プレーオフではナシオナルと対戦。残り20分の段階で0-2と劣勢だったが、その後4得点を挙げて4-2とし、ナシオナルを逆転して優勝した。この「ゴールの嵐」がシクロン(El Ciclón、ハリケーン)というクラブの愛称の由来である。 プリメーラ・ディビシオンでは29回優勝しているが、国際タイトルを獲得したことはない。コパ・リベルタドーレスでは1973年大会、1978年大会、1993年大会、1998年大会、1999年大会、2011年大会でベスト4となったが、つねに準決勝の壁に阻まれている。コパ・スダメリカーナでは2009年にベスト4となった。 2001年にはトップチーム以下、年齢別の全てのカテゴリで優勝するという快挙を成し遂げた。2008年5月にはオズワルド・アルディレスが監督に就任したが[2]、成績が低迷して8月には解任され、ペドロ・トログリオが後任監督に就任した[3]。2010年のFIFAワールドカップで「美人過ぎるサポーター」として話題になったラリッサ・リケルメはセロ・ポルテーニョのサポーターである[4]。セロ・ポルテーニョのサポーターはセリスタと呼ばれる。 ライバル最大のライバルはオリンピアとリベルタである。オリンピアやリベルタのファンに上流階級が多いのに対して、セロ・ポルテーニョのファンの多くはより低い社会階級であるため、「一般大衆のクラブ」(エル・クルブ・デル・プエブロ)として知られている。このため、セロ・ポルテーニョはパラグアイでもっとも多くのサポーターを持つサッカークラブとされている。オリンピアとの対戦はスーペルクラシコと呼ばれ、パラグアイでもっとも関心を集め、もっとも権威のあるダービーである。 タイトル国内タイトル
国際タイトル
過去の成績2007年シーズンまではアペルトゥーラとクラウスーラの短期リーグを行なったあとに1位同士が年間優勝決定プレーオフを行なっていた。2008年シーズンからは短期リーグの1位クラブがそのまま優勝扱いとなり、1年間に2つの優勝クラブが誕生する方式に変更された。
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
記録
出場試合数
得点数
歴代監督
歴代所属選手→詳細は「Category:セロ・ポルテーニョの選手」を参照
GK
DF
MF
FW 脚注
外部リンク |