ナイジェル・ブルース
ウィリアム・ナイジェル・アーンル・ブルース(William Nigel Ernle Bruce、1895年2月4日 - 1953年10月8日)はイギリスの俳優。舞台や映画で活躍した性格俳優である[1]。ベイジル・ラスボーンがシャーロック・ホームズを演じた映画シリーズやラジオドラマシリーズでのワトソン医師役で知られている他、アルフレッド・ヒッチコック監督の『レベッカ』や『断崖』にも出演している。 略歴第10代準男爵、サー・ウィリアム・ウォーラー・ブルース(Sir William Waller Bruce、1856年 - 1912年)とその妻アンジェリカ(Angelica、? - 1917年)の次男。母アンジェリカはジョージ・セルビー(George Selby)将軍の娘。両親が休暇を過ごしていたメキシコのバハ・カリフォルニア州エンセナーダで生まれる。スティーブニッジやオックスフォードシャーで教育を受けた後、1914年に士官として第一次世界大戦に従軍するが、カンブレーの戦いで左足に11発の銃弾を受けるという大怪我を負い、その後の戦争中のほとんどを車椅子で過ごすことになる。 1920年5月20日にロンドンで初舞台を踏み、フットマン(召使)を演じる。同年10月にカナダに渡り、舞台『Eliza Comes』にモンタギュー・ジョーダン役で出演した後にイングランドに戻り、同じ作品の同じ役で旅巡業に加わる。以降はコンスタントに舞台に出演し、8年後にはサイレント映画にも出演するようになる。1934年にはハリウッドに渡り、その後、ビバリーヒルズに居を構える。 おどけた(buffoonish)ボケた(fuzzy-minded)紳士を演じることが多い。生涯で78本の映画作品に出演し、代表作には『宝島』や『進め龍騎兵』『レベッカ』『断崖』がある。 他にも2本の記念碑的な作品に出演しており、『虚栄の市』(1935年)はテクニカラーを使った初めての総天然色長編映画であり、また『ブワナの悪魔』(1952年)は初の3D映画である。また、珍しく悪役を演じた『雨ぞ降る』(1939年)は特殊効果でオスカーを受賞した初めての映画である。 ワトソン役として最も有名な役は、親友であるベイジル・ラスボーンがシャーロック・ホームズを演じ、1939年から1946年まで続いた映画シリーズでのワトソン医師役である。同映画シリーズの14作品、同じ配役のラジオドラマシリーズの200作品以上に出演している[2]。ラスボーンよりも年上に見られることが多いが、実際にはラスボーンよりも3歳年下である。 「ワトソン医師と言えばナイジェル・ブルース」と言われるほどの強い印象を残しているが、ホームズの熱心なファンは、原作での知的で有能な(傑出した探偵というわけではないが)ワトソンと異なり、ボケていてドジばかりしている人物として描かれていることに異議を唱えている(この描写によって「Boobus Britannicus(おバカさんなブリタンニクス)」というニックネームが付けられた[2])。ローレン・D・エスルマンはブルースについて次のように書いている。
また、次のようなクレリヒュー(人物四行詩)がある。
その一方で、ラスボーンはブルースの演技を高く評価しており、ワトソンは映画の最も愛すべきキャラクターの1人であるとしている。ラスボーンとブルースのコンビによる映画シリーズは、1946年にプロデューサーで監督のロイ・ウィリアム・ニールが亡くなったことで終了する。それ以降、特に1970年代以降は、アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズの映像化をはじめとする主要な翻案作品のほとんどで、一般的に固定したイメージに意識的に反する形で、ワトソンを原作に忠実に有能で実行力のある人物として描いている。 エピソード家族1921年にイギリスの女優ヴァイオレット・キャンベル(Violet Campbell、旧名:ヴァイオレット・ポーリーン・シェルトン、Violet Pauline Shelton、1892年 - 1970年)と結婚し、最期まで添い遂げた。彼女のことは常に愛情を込めて「バニー(Bunny、ウサちゃん)」と呼んでいた。2人にはジェニファーとポーリーンという娘がいる。ポーリーンは1946年にイギリスのエース・パイロットであるジェフリー・ペイジと結婚している。 晩年友人からは「ウィリー(Willie)」と呼ばれ、ロサンゼルスのイギリス人映画集団の主要メンバーだった。また、(主にイギリス人からなる)ハリウッド・クリケットクラブのキャプテンでもあった。アメリカ合衆国で長く暮らしていたにもかかわらず、同年代の仲間たちと異なり、イギリス国籍を捨てることはなく、亡くなるまでロンドンの紳士クラブに籍を置いていた。最後の映画は、亡くなった翌年1954年に公開された『World for Ransom』。 死1953年にカリフォルニア州サンタモニカで心筋梗塞により58歳で亡くなる。遺体は火葬され、遺灰はロサンゼルスにあるパインズ火葬場の礼拝所の地下墓所に保管されている。 『Games, Gossip and Greasepaint(ゲーム、ゴシップそしてドーラン)』のタイトルで自伝を執筆したが出版されることはなかった。しかし、抜粋が『Sherlock Holmes Journal』に掲載され、許可を得た上でオンライン上に投稿されている[4]。 出演映画
出典
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