ニュルンベルク裁判ニュルンベルク国際軍事裁判(ニュルンベルクこくさいぐんじさいばん)は、第二次世界大戦において連合国によって行われたナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 - 1946年10月1日)。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。 最初の主な裁判(英語:Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT)と、それに続く、ニュルンベルクを占領統治していたアメリカ合衆国による12の裁判(英語:Nuremberg Military Tribunals, NMT. 1949年4月14日まで行われ、一般には「ニュルンベルク継続裁判」として、最初の主な裁判とは区別される)で構成された。 前史戦前の認識いわゆる「人道に対する罪」という言葉の淵源は1909年のハーグ陸戦条約に見られるが、用語として成立したのは戦後になってからだった[1][要文献特定詳細情報]。第一次世界大戦後の1919年1月、連合国は、国家元首をも含む戦争開始者の責任を裁く国際法廷の設置について討議を行った。この方針は採択されなかったものの、ヴェルサイユ条約に前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を国際条約の信義に背いたとして国際法廷で裁くという条項に反映された。しかしヴィルヘルム2世の裁判は実現せず、またドイツの戦争犯罪容疑者を国際法廷で裁くこともドイツ側の拒否にあい、ライプツィヒ戦争犯罪裁判として行われたドイツ国内の戦犯裁判は、ほとんど形式的なものに過ぎなかった。 また、オスマン帝国のアルメニア人虐殺に対しては、連合国側の15人委員会が「人道に対する罪」として取り上げようとした際、アメリカおよび日本は「これを認めれば、国家元首が敵国の裁判にかけられることになる」として反対した。またアメリカは国際法廷の設置そのものに前例がないとして反対した[2]。その後も国際法廷に関する協議は行われていたが、明確な条約は締結されなかった[3]。 連合国の戦犯裁判方針の形成第二次世界大戦勃発直後から、連合国間ではドイツによる前例のない残虐行為を非難する声が高まっていた。1940年11月にはポーランド亡命政府とチェコスロバキア亡命政府が、ドイツの占領下にある両国の領域における残虐行為は、史上例がないと非難した共同宣言を発表した[4]。1941年10月25日にはアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相がそれぞれドイツの残虐行為を非難する声明を発表し、特にチャーチルは「これら犯罪の懲罰は、今や主要な戦争目的の一つ」であるとした[4]。11月5日にはソビエト連邦のヴャチェスラフ・モロトフ外相も同様の発言を行い、英米と歩調を合わせた[4]。 1942年1月13日にはセント・ジェームズ宮殿に集まったベルギー、ルクセンブルク、チェコスロバキア、ポーランド、ギリシャ、オランダ、ノルウェーの各亡命政府代表と自由フランス代表が「組織された裁判の手続きにより」、市民に対する残虐犯罪を犯したもの達を処罰することを、「主要な戦争目的の中に入れる」ことを決議した[5]。オブザーバーとして参加していた中華民国の代表もこの原則に同意し、この方針を中国大陸に存在する日本軍にも適用する意志を示した[6]。またソビエト連邦もこの方針に同意した[6]。イギリスは戦犯裁判に当初乗り気ではなかったが、これらの国々の突き上げによって戦犯裁判について検討せざるを得なくなった。また、日本の占領によってイギリスの軍民が被害を受けているという報告が多く寄せられ始めたことも背景にあった[7]。6月にはチャーチルが連合国戦争犯罪捜査委員会の設置をアメリカに示唆し、7月には閣議でこの方針を承認するとともに、戦争犯罪人の扱いに関する内閣委員会を設置することを決定した[6]。 この討議では、外相アンソニー・イーデンと大法官ジョン・サイモンが国際法廷による裁判に反対意見を表明している[6]。 1942年10月7日、ルーズベルト大統領とサイモン大法官はそれぞれ、連合国戦争犯罪捜査委員会の設置と、戦犯裁判のためのあらゆる証拠を収集することを表明した[6]。しかし第一次世界大戦後のライプツィヒ裁判の失敗から、具体的な戦犯裁判には米英は消極的であったこと、さらにソビエト連邦の裁判参加問題もあって、具体的な決定はなかなか行われなかった[6]。ソビエト連邦は自国の構成共和国、とくにバルト三国に設置された社会主義政権を代表として認めるよう要求し、イギリスはこの要求を拒否した[8]。ソビエト連邦は即時の戦犯裁判開始を求めていたが、イギリスは捕虜となっている将兵が報復されることを怖れ、大半の戦犯裁判は戦争中には行われなかった[9]。1943年10月20日からロンドンで開催された17カ国会議によって連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)の設置が決まった。11月1日にはモスクワ宣言が発表され、局地的な戦争犯罪被告人については被害国で裁くものの、国家・軍・ナチ党の指導者の裁判については今後決定されるとされた。 UNWCCは1944年1月11日に第一回正式会合を行い、まず何が戦争犯罪であるかの討議を開始した。この討議の中で、「戦争という犯罪」や、従来の戦争犯罪の枠に収まらない残虐行為(ナチス・ドイツが行ったリディツェ・レジャーキ村の殲滅行為など)も裁判の対象に加えるべきであるという主張が行われた。10月3日、UNWCC総会は「戦争犯罪人裁判のための最高司令官による混合軍事法廷設立を支持する勧告」を賛成8、反対4で採択した[10]。この勧告では文民による国際法廷の開催と、明文化された条約の他に、「文明諸国民の間で確立した慣習、人道の法、ならびに公衆の良心の命ずるところから由来する諸国家の法の諸原理」「法として認められた一般的な実践の証拠としての戦争の国際的な慣例」をも根拠とするべきであるとしており[11]、「人道に対する罪」は含まれていたものの、「平和に対する罪」は含まれていなかった[12]。UNWCCは実際の裁判運営についてはイギリス外務省に一任するとしていたが、イギリス政府はUNWCCの勧告の多くに拒否反応を示した。イギリス政府は戦争犯罪については従来の狭い定義を用いるべきであると考えており、ドイツ国内におけるユダヤ人に対する迫害(ホロコースト)を対象に加えることにも反対し、戦後成立するドイツ政府に裁判を任せるべきと回答した[13]。アメリカ国務省も「人道に対する罪」を対象とすることには反対しており[14]、主要戦犯裁判については消極的であった[15]。 しかしヘンリー・モーゲンソー財務長官は1944年7月にヨーロッパから帰還すると、アメリカ政府の対応がドイツに対して寛大すぎると非難を行うようになった[16][17]。モーゲンソーはナチス戦犯のリストを作り、これら戦犯を即決で銃殺刑に処するよう主張するとともに[17]、ドイツが犯した文明に対する犯罪を裁判で裁くよう主張した[18]。アメリカ政府内でモーゲンソーの意見が影響力を持つようになると、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは危機感を抱くようになった。スティムソンはモーゲンソーの方針がかえって新たな戦争の原因となると考え、全てのナチス指導者を裁判で裁くよう主張した[19]。9月25日のケベック会談でモーゲンソーは戦犯の即時射殺をルーズベルトとチャーチルに提案し、両首脳は一時これを了承している[19][20]。ところがモーゲンソーの戦後ドイツ統治計画「モーゲンソー・プラン」がマスコミからの非難を受けると、ルーズベルトとモーゲンソーの関係は冷却化し、モーゲンソーの影響力は低下していった[19]。こうしてアメリカ政府内での戦犯裁判問題については陸軍省が主導権を握ることになった[19]。 9月15日、マレイ・バーネイズ(Murray C. Bernays)陸軍中佐は、「ヨーロッパの戦争犯罪人の裁判」についての覚書を作成した。この覚書では、戦争以前にドイツが自国民に対して犯した犯罪を裁くことや、「戦争法規に反して殺人、テロリズム、平和的民衆の破壊を犯した共同謀議(conspiracy)」を裁くよう提案している[19][21]。「共同謀議」論は、従来の戦争犯罪に収まらない組織的系統的な残虐行為、いわゆる「人道に対する罪」や、従来の戦争犯罪を行った国家の最高指導者や各級の指導者を裁くために導入されたものであり[22]、具体的にはナチ党と親衛隊、突撃隊、ゲシュタポを含む国家と党の代理人を訴追するためのものであった[21]。スティムソンは従来自国民に対する犯罪を加えることには反対していたが、バーネイズの見解に同意した。11月9日の陸軍・海軍・国務省首脳会議では共同謀議論の採用と、国際条約に基づく国際法廷の開催が決定されたが、侵略戦争開始についてはなおも検討が加えられることになった[23]。司法省や国務省法律顧問は共同謀議論、そして侵略戦争を犯罪とすることについて批判したが、マルメディ虐殺事件が報道されたこともあって、次第にナチスに対する懲罰意見が強くなり始めた。年末には陸軍法務部長室内に戦争犯罪局が設置され、研究が開始された[24]。1945年1月4日、ルーズベルト大統領は「不戦条約違反の侵略戦争開始」を告発に含めるべきであるという覚書に署名し、1月22日には共同謀議論の採用、侵略戦争開始の訴追等が陸軍・海軍・国務省三長官の間で合意された[25]。4月にはハリー・S・トルーマン大統領がこの三長官合意を採用し、アメリカ政府の戦犯訴追方針が固まった[25]。その後大統領側近のサミュエル・ローゼンマン、司法長官フランシス・ビドル、ロバート・ジャクソンらが中心となり、戦犯裁判の基本造りが開始された[15]。 イギリス政府とアメリカ政府の協議が始まったが、イギリス政府は戦犯裁判に難色を示していた。しかし、ナチス政府が崩壊し、総統アドルフ・ヒトラーが自殺すると、イギリス政府は反対方針を取り下げ、裁判を承諾した。これにはヒトラーが法廷で演説するという事態が避けられたことも一因となっている[25]。 戦犯裁判開催は定まったが、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦・フランスの臨時政府は、中小国が参加するUNWCCを裁判に関与させず、自らが裁判の主導権を握る動きを見せ始めた[26]。UNWCCはこれに抵抗しようとしたが、8月8日には4大国間で国際軍事裁判所憲章(ロンドン憲章)が成立し、4大国による戦犯裁判は既定方針となった[27]。ロンドン憲章においては「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」、そしてそれらを犯そうとする「共同謀議」の4点を裁判所の管轄とすることになり、この点では同憲章によって設立された「極東国際軍事裁判」とも共通していた。「人道に対する罪」の導入については、特にロバート・ジャクソンの役割が大きかったと見られている[1]。 裁判官判事は連合国の主要国のうち、ドイツと直接戦ったイギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4か国からそれぞれ2名ずつ選ばれた。
被告人被告となったのは24名の「主要戦犯」(英語: Major War Criminal)であり、うち2名が審理中に死亡、もしくは除外された[28]。高齢を理由に免訴されたグスタフ・クルップに代わって息子のアルフリート・クルップを被告に加える動きがあり、米仏ソ三国は賛成したが、イギリスは反対し、裁判所も被告と認定しなかった[29]。 ドイツの最高指導者だった総統アドルフ・ヒトラー、最高幹部の宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスや親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーらは終戦時に自殺しており、起訴することが不可能であった。また、ナチ党最大の実力者であった党官房長マルティン・ボルマンも行方不明のまま(後年になってベルリン陥落時に自殺していたことが判明)であり、起訴はしたものの欠席裁判で死刑判決を言い渡された。 検察側が被告に対して、暴行や違法な取り調べを行ったり、弁護団に妨害行為を行った為(#被告に対する暴行や弁護団への不法・妨害行為)、戦争の全容解明が困難になった。また、国民啓蒙・宣伝省の幹部だったハンス・フリッチェの起訴は自殺したゲッベルスの「身代わり」としての意味合いが強く、フリッチェは結局、この裁判では無罪判決を受けている。
裁判の経過首席検察官となったロバート・ジャクソンは、検察官の任務を二つの段階にわけた。 第一段階は「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)、ゲシュタポ、その他の組織が一味となった全般的共同謀議を立証すること」であるとし、第二段階を共同謀議の一員である被告を特定することであるとした[30]。この認識に基づいたロンドン憲章により、以下の6つの「犯罪組織(犯罪集団)」が訴追対象となった。すなわち、ナチ党指導部、内閣、親衛隊(SS)、突撃隊(SA)、「ゲシュタポおよびSD(親衛隊保安部)」、さらには「参謀本部および国防軍最高司令部(軍指導部)」であった。裁判にはアーネスト・ヘミングウェイ、エーリカ・マンと言った内外の著名人がレポーターとして傍聴に訪れ、国際的な関心も極めて高かった[31]。 開廷初日の1945年11月21日、裁判長による、検察側の起訴状の罪状認否の質問に対し、被告全員が罪状を否定し、自分たちは無罪であると答弁した[32]。 1946年9月30日の判決では、帝国内閣と軍指導部[33]、そして突撃隊は有罪とされなかった[28]。この認定は1945年12月10日に連合国管理理事会によって発令されていた管理理事会法律第10号によって、「犯罪組織」の構成員を対象に、各占領軍政府が訴追を行える根拠となった[34]。ただしこの判決では、その組織が犯罪的組織であると認識していなかった者、国家による強制によって構成員となった者については戦犯から除外する規定があった[35]。 死刑は1946年10月16日に絞首刑によって執行され、禁固者は1947年、ベルリン郊外のシュパンダウ刑務所へ移送された。 ニュルンベルク裁判の後、この裁判の被告に次ぐ立場にある戦争犯罪人、そして「犯罪組織」の構成員に対する二種類の国際裁判が計画されていた[36]。フランスとソ連はこの裁判開催を望んでいたが、アメリカは消極的であり、裁判の終結まで開催決定は先送りされ、結局開催されなかった[37]。ロバート・ジャクソンは4カ国語の通訳は手間がかかり、経費がかさむと理由を挙げているが、実際には連合国間による摩擦を嫌ったアメリカが、単独での裁判を望んだためと見られている[37]。その後、ドイツ国内の各国占領地域でそれぞれ個別の非ナチ化裁判が行われ、ニュルンベルク裁判で無罪となった3人もそれぞれ別の有罪判決を受けた。またニュルンベルクを占領していたアメリカ軍が、ニュルンベルクにおいて行った裁判群は特に「ニュルンベルク継続裁判」と呼ばれる。 裁判に対する評価の論点→「極東国際軍事裁判 § 裁判の評価と争点」も参照
事後遡及の観点「平和に対する罪(侵略戦争)」、「人道に対する罪」は国際条約などで完全に成立したわけではなく、法の不遡及、罪刑法定主義の立場をとる欧州大陸法的な立場からは「法廷による法の創造」が行われた「事後法」による裁判との批判が当時から現在まで根強くある[注釈 1]。裁判の弁護人を務めたヤールライスは、裁判について、道徳や人類の進歩の名に於いて要求されているべき法の問題ではなく、現行法の問題と扱うべきであるとして批判し、さらに、ニュルンベルク裁判規約についても、原則的に新しいものを設定することとなり、革命的であるとの見解を表明した[38]。 この批判は戦時中から存在したが、刑法学者シェルドン・グリュックは「侵略戦争の遂行は不法である」「国家の名において犯された犯罪行為で政府構成員の個人の罪を認めることは何等遡及的ではない」と反論している[39]。しかしグリュックも侵略戦争の罪に疑義が呈されることは認識しており、より疑義の少ない「通常の戦争犯罪」だけでなく、侵略戦争の罪を加えて複雑化したのはなぜかという疑問を呈している[40]。裁判直後、バイエルン州首相でもあった法律家ハンス・エーハルトは、1939年の段階で侵略戦争の罪で裁くことは不法であるとしながらも、これらの観点が導入されたのは政治的な配慮によるものであるとし、将来の戦争抑止という意味で一般的な正義の感覚を代弁しているとしたうえで、「これほどまでのおぞましい犯罪者集団を罰するのに、既存の法概念では明らかに不充分と思われたからだ」としている[24]。首席検察官ロバート・ジャクソンはこのエーハルトの意見について同意できない点があるとしながらも、「これまでに出たおなじみの批判にくらべると、ずっと有益な議論を示していると思う」としている[24]。 戦争・人道犯罪抑止の観点ニュルンベルク裁判がホロコーストをはじめとする人道的事件に対して、充分な措置を行えなかったという批判も存在している。マイケル・マラスやジェフリー・ロバートスンはホロコーストやポライモス等を正当化したナチズムを断罪した裁判として高く評価しているが、ローレンス・ダグラスやP.ノヴィックはホロコーストに注意を喚起するために、裁判は充分な役割を果たさなかったと批判している[1]。 戦勝者による裁判の中立性この軍事法廷は「勝者の連合国によって敗者となったドイツの戦犯を裁く」という異例な形式の裁判であった。ウィリアム・ボッシュ(William Bosch)はスティムソンらのアメリカ首脳の戦犯裁判方針を、道徳主義的・法遵守主義的傾向を見、「同じ事でも枢軸側がやれば悪、連合国側がやれば必要悪」とする「ダブルスタンダード」の傾向があると指摘している[24]。リチャード・マイニアは、連合国の正当化に裁判が利用されたという面を指摘している[41]。戦後を通じて「勝者である連合国による断罪」という政治的行為が、「侵略戦争」や人道に対する罪を非難する動きに、否定的な影響を与えたのではないかと指摘する声が存在している[42]。 またニュルンベルク裁判における全ての裁判官がアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出ていたため、これが戦勝国による軍事裁判であることを考慮したとしても、裁判の中立性を著しく欠いていた。これに対して、極東国際軍事裁判では比較的中立的な立場に立てたインドからも判事が召請されており、ラダ・ビノード・パール判事が個別意見として全被告人を無罪とする意見を出している。 ニュルンベルク裁判アメリカ検事団長のロバート・ジャクソン連邦最高裁判事の上司で、当時アメリカ連邦最高裁長官だったハーラン・ストーン判事は、雑誌『フォーチュン』の記者とのインタビューで次のように答えている。
また、尋問官その他のスタッフには欧州からの亡命者が多く、そのために裁判は「復讐裁判」的な色彩を一層強くしたという指摘がある。ニュルンベルク裁判の判事を務めたが、裁判の手続きを批判して辞任したアメリカのチャールズ・F・ウェナストラム・アイオワ州最高裁判事は、こう述べている。
免責された戦勝国の犯罪ニュルンベルク裁判の大きな問題点はドイツ側の(戦勝国の憶測によるものも含む)「犯罪」を一方的に断罪したが、戦勝国側の「犯罪」は完全に免責するという基準を持っていたことである[43]。そもそも大戦の原因となったポーランドによるダンツィヒ領の占有問題、1939年9月3日のフランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告[注釈 2]は断罪されなかった[要出典]。また、1939年9月ドイツが西からポーランドへ侵攻した一方で、同じ時期にソ連も東からポーランドに侵攻しており、さらに1939年11月のフィンランドとソ連の冬戦争では、ソ連は侵略の罪状で国際連盟から追放されているにもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、ドイツが「平和に対する罪」で告発された一方で、ソ連の「平和に対する罪」は不問に付された[43][注釈 3]。連合軍によるドイツへの無差別爆撃(ドイツ本土空襲)、ドレスデン爆撃などをはじめとして、日本本土への爆弾投下量の10倍にも当たる150万トンもの爆弾がドイツ本土に投下され、少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった[注釈 4][48][49]。ソ連軍の侵攻によってドイツのソ連占領地区で起きた、ソ連兵による強姦・暴行・殺人事件も裁判では不問とされた。 終戦前後のアメリカ軍によるドイツ人捕虜への虐待による大量死問題も闇に葬られた。ジェームズ・バクーの『消えた百万人』では以下のような指摘がある。
他に連合軍、ソ連の戦争犯罪には、戦時国際法に違反したレジスタンス(パルチザン)活動の積極的な支援がある[50]。
ニュルンベルク裁判が行われた1945年以降、特に戦勝国による侵略行為や虐殺行為が一度も裁かれた事はなく、ニュルンベルク裁判の規範が守られた事は二度と無かった[51][52]。 ニュルンベルク憲章への批判1945年8月8日、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝連合国はニュルンベルク憲章(Nuremberg Charter)を定めて、裁判の法的枠組みを設定した。 ニュルンベルク憲章の第6条では、審理される「犯罪行為」について次のように規定している。
しかし、近代刑法における原則である法の不遡及が守られず、被告の控訴は否認され、恣意的な裁判審理手続きを定めた裁判は、近代裁判とはかけ離れていた。 憲章第6条により、法廷は事実上、あらゆる行為を戦争犯罪と認定した。 だが、法廷は戦勝国のあらゆる行為を、憲章第6条による審査の対象から外した為、戦勝国が行ったいかなる犯罪行為も、戦争犯罪と認定しなかった[53]。 第6条における違反は、戦争の「計画、準備」していただけで違反となる。連合国やソ連は、ドイツや中立国に対して侵攻計画を所持していたし、実際に侵攻したが、連合国やソ連が起訴されることはなかった[54]。 ポーランドなどの東ヨーロッパを、ドイツとソ連で分割した1939年8月23日の秘密議定書(独ソ不可侵条約)の文書も、ニュルンベルク裁判で公開させないように検察が弁護団へ妨害行為を行っている[54]。 ニュルンベルク裁判での証拠採用基準は近代の裁判基準から大きく逸脱しており、(特に19条[注釈 9]、21条[注釈 10]による)通常の裁判でならば、信頼できないものとして却下されるような証言が、犯罪を立証する証拠として採用された(ニュルンベルク法廷における虚偽証言)。弁護団には、検事側の証人に対する反対尋問の機会、裁判資料を閲覧する機会がほとんど与えられず、一方で弁護活動を妨害された[55]。弁護側に有利で検察側に不利な証拠が消失する事すらあった[56]。最も問題であるのは、被告が逮捕・尋問の過程で暴行や虐待を受けていることである[57]。 また、当裁判の法的根拠であるロンドン協定には、アメリカ検事ジャクソン、フランス予備裁判官ファルコ、ソ連検事ニキチェンコが署名している。このことは、ニュルンベルク裁判が、立法者、検察官、裁判官を兼ねることを禁じた「司法権力の分割」という根本的な原則からして大きく逸脱していたことを意味している。 人道に対する罪や平和に対する罪は、法廷が設置される以前には存在しておらず、間に合わせに作り出され、法的な基準に反して、遡及的に適用された。
アメリカ合衆国最高裁・裁判長ハーラン・ストーン判事は、ニュルンベルク裁判は連合国による集団リンチであると述べている。
被告に対する暴行や弁護団への不法・妨害行為ドイツ近代史の専門家であり、ミュンヘン大学教授でもあったヴェルナー・マーザー博士 (Werner Maser) はこの問題点について、こう述べている[58]。 弁護団への妨害行為弁護団が見る事の出来るのは、有罪の証拠となるようなデータのみであった。これに反し、検察側はこれらのを記録を証拠として有罪を証明できるのであった。弁護団には被告側に有利な資料を探し出す可能性は、ゼロだった。弁護団から要求される記録は、まず検察側に提示されなければならないし、検察側はそれを採用すべきかを決定した[55]。 弁護団が、検察側の引用する記録を見せてほしいと要求しても、引用した記録が行方不明になっていることがあった。ニュルンベルクの記録は連合国の将校たちに警備されていた為、その記録は将校たちの手で金庫から持ち出された可能性がある[56]。 弁護側の証人や支援者は、脅迫を受けたり、出廷させてもらえなかったり、逆に検察側の証人にされたりした。オズワルド・ポール (Oswald Pohl) は、アメリカおよびイギリス役人から拷問を受け、ワルター・フンク (Walther Funk) の有罪を証明する、と約束するまで虐待された[57]。 許可されなかった反対尋問1945年11月28日、弁護人エゴン・クブショク博士は、メッサースミスという名の証人による、数人の被告に重大な不利益をもたらすものである供述書の内容に対し、異議を申し立て、反対尋問を要請した。それに対し、検事アルダーマンは、証人に反対尋問を受けさせる事を拒否し、「証拠価値ありとみえる一切の証拠資料を承認するものである」とする憲章第18条を持ち出した[59]。 ニュルンベルク裁判では、弁護側の反対尋問に対する妨害行為が行われたが、歴史上初めてホロコーストに関する裁判で反対尋問が行われたのはツンデル裁判であった[60]。ツンデルの弁護団は正史派に対し反対尋問を行い、尋問を受けたラウル・ヒルバーグはソ連がニュルンベルク裁判で主張していたアウシュヴィッツの400万人の犠牲者が「多過ぎる。」と認めた[61](ツンデル裁判の時期(1985年、1988年)では、公式のアウシュヴィッツの犠牲者の数は400万人であった。現在では、何百万人も大幅に下方修正され、110万人とされている)。また、アウシュヴィッツでは1日6万人が虐殺された、と記載されているソ連の書籍があるが、事実か?と尋問をされて「事実ではない。」と認めた[61]。ソ連がニュルンベルク裁判でマイダネクは絶滅収容所だと主張していたが、ヒルバーグは「マイダネクが絶滅収容所ではない。」と認めた[61]。ニュルンベルク裁判で重要な証拠文書とされたゲルシュタイン報告には、「ガス室の1平方メートルあたり28~32人が入った。」とか、「2500万人が虐殺された。」とか記載されているが、事実か?と尋問されて、「明らかに誇張されており、信用出来ない。」と認めた[61]。ニュルンベルク裁判で事実と認定された人間石鹸の話は事実か?と尋問されて、「事実ではない。」と認めた[61]。 ソ連の検察がニュルンベルク裁判で、カティンの森事件はドイツの犯行だ、と主張したが、事実か?と尋問されて、「ドイツの犯行ではない。」と認めた[61]。 カナダ最高裁はツンデルを言論の自由の範囲内であり罪には問えないと判断した[62]。2003年、ツンデルはホロコーストを否定しようとしたとされ、ドイツでVolksverhetzung(民衆扇動罪)の容疑で逮捕状が出され身柄を拘束された[63]。 被告への暴行や拷問行為ユリウス・シュトライヒャーは連合国のユダヤ人将校から、4日間に渡り、拷問や暴行を受けたと証言した[64]。 他にハンス・フランクも、アメリカ兵に暴行されたと証言している[65]。 弁護士の選定についての問題点弁護士の選定についても問題があるとされている。弁護団のメンバーは連合国側によって選ばれた。其の為、弁護士が国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の元党員や関係者、同情的な者、国民社会主義時代に活動していた弁護士は全て排除された。 さらに報道機関が「反ナチスキャンペーン」を宣伝していたため、一部の弁護士は反応を恐れて参加しようとしなかった。 法定での被告は、恐怖や偏見に囚われた弁護士によって弁護された。 実際に大半の弁護士が、検察の主張を疑わずそのまま信じ込み、罪を被告から被告へと責任転嫁しただけであった[66]。 弁護側の法廷戦略について検察官、裁判官の全員が戦勝国から選出されており、弁護士も戦勝国が選定する。という法廷の中立性を著しく逸脱している状況下や、戦後のホロコーストに関する裁判全般において、 法廷でホロコースト自体を認めないという事は、勝つ見込みのない法廷戦略であり、被告は反省しておらず、ナチスを擁護しようとしている。として裁判官の心情を悪化させ、重罪が科される危険性があった。 その為、弁護団は検察側の主張通りホロコーストを認め、被告個人の責任を最小限に抑えるという法廷戦略を採用していた。 「自分は知らなかった。」、「命令だった。」、「反対しようとした。」 など、被告自身以外の他人(すでに死亡した人物を含め)に責任転嫁し、批判、非難をするという弁護方針を採っていた。 このような被告の供述は、ホロコーストの存在を裏付ける証拠として無批判に採用されている。と主張されている[67]。 国際犯罪観への影響→「ニュルンベルク諸原則」も参照
この裁判によって採用された原則は、1947年の国際連合総会で「ニュルンベルク諸原則」として採択された(決議95-1)。この原則で平和に対する罪、人道に対する罪、戦争犯罪が国際的な罪であると初めて明文化されたほか、国際犯罪においては国内法の範囲は無関係であるとし、単に命令を実行した者であったとしても、責任は免れ得ないことなどが定められた[68]。また検察官は最終論告においてユダヤ人の虐殺を「ジェノサイド」と形容し、「ジェノサイド罪」を国際法上の犯罪として位置づけようとする動きの中で、この言葉は法的実効性を持つものと考えられるようになった[69]。 戦後ドイツにおけるニュルンベルク裁判観ニュルンベルク裁判は戦犯個人、および組織の罪を裁いたものであったが、ドイツという国家自体については裁かれなかった。カール・ヤスパースはナチス・ドイツをナチ党による不法な簒奪によって生成された「不法国家」であるとみなし、ニュルンベルク裁判の被告となったナチス指導者達は政治犯ではなく、刑事犯罪者であると規定した。この考え方はドイツにおけるニュルンベルク裁判観の主流となり、裁判によって個人やナチス組織の罪が追及されたものの、ドイツ国民やドイツ国の「集団的罪」についてはこれを否定する傾向がある[24]。 裁判中にドイツ国民に対して行われた調査によると、裁判で裁かれる各種犯罪について裁判で初めて知ったものの割合は当初三分の二であったが、終盤には80%を超えた[31]。裁判開始の時点では70%の回答者が被告全員が有罪であると考えていたが、判決後には56%に減少している[31]。また50%が判決は正当であると回答している[31]。また西側占領地域で判決後に行われた国際軍事裁判の形式についての調査では、70%が正しいと回答していたが、4年後には70%が正しくないと回答している[31]。これは少数のナチ党指導者を裁いたニュルンベルク裁判に対し、軍や企業と言った身近な組織が裁かれる印象をあたえたニュルンベルク継続裁判への反発があるとみられている[31]。 またドイツの政界では戦犯裁判は「戦勝国による不当な裁き」との認識で語られており[70][71][72][要ページ番号]、このため戦後のナチス犯罪の追及において「戦争犯罪」と「ナチス犯罪」を同一視することが障害となり[73][要ページ番号]、1960年代には両者は明確に区別されるようになった。 1952年の西ドイツの主権を回復した基本条約には、ニュルンベルク裁判判決が連邦共和国の全ての公的機関および司法機関に対して最終的な拘束力を持つ。と定められており、この条約により、現代でもドイツの裁判所、行政機関はニュルンベルク裁判判決による歴史観からの修正が不可能な状態に置かれているとされる[74]。 ドイツ政府によるニュルンベルク裁判への対応ドイツ政府は現在に至るまで、ニュルンベルク裁判は戦勝国に一方的に不法で裁かれた裁判(Siegerjustiz)として認めておらず、いかなる条約も受諾していない[75]。 ドイツ政府がニュルンベルク裁判を承認していない顕著な例は、ホロコースト否定を取り締まる法である。例えば、ニュルンベルク裁判で裁く側であったフランスではゲソ法による取り締まりが行われる。ゲソ法はニュルンベルク裁判と関連付けられており、「人道に対する罪」に異議のある者を取り締まる[75]。しかし、ドイツでは政府自体がニュルンベルク裁判を承認してないため、民衆扇動罪(ドイツ刑法典130条。特に第3項)により、取り締まりが行われる[75]。
民衆扇動罪は、公共の場で「ホロコーストは捏造である」「ガス室は無かった」等の発言で大衆を扇動するなど、社会の平穏を乱すような場合にのみ適用される[76]。したがって、ホロコースト否定派が、閉じられた空間の中でそうした発言をしても適用されない[76]。 また、ホロコーストの規模や人数を「疑問視するだけ」では、民衆扇動罪の要件を満たさないので適用されない[76]。 連邦憲法裁判所は、刑法130条の解釈・適応および具体的な意味理解について、表現の自由への配慮を要請しており、刑事裁判所が下したいくつかの有罪判決を覆している[77]。例えば、ある男性がドイツの戦争責任やホロコースト否定を記した文章を飲食店店主に手渡した事を理由に民衆扇動罪で有罪となったが、連邦憲法裁判所は二人の間で文章がやり取りされただけで頒布には当たらず、平穏を乱す効果はなかったと判断し有罪判決を破棄している[78]。 ニュルンベルク裁判の問題点武井彩佳は歴史修正主義者によるニュルンベルク裁判の批判を、次の4点にまとめている[79]。
武井は南京大虐殺、従軍慰安婦、ホロコーストの否定などの歴史修正主義の動きに批判的な歴史学者である[80]が、歴史修正主義者の主張には、以下の点において正当性が含まれていると指摘する[81]。
また、武井は戦後秩序の形成に画期的だったはずのニュルンベルク裁判は、皮肉にも歴史修正主義の「生みの親」になったとしている[82]。 アンネッテ・ヴァインケ(Annette Weinke)は、ニュルンベルク裁判の最大の欠点として、ドイツ降伏直後の1945年5月にフランス軍がアルジェリアのセティフで4万人の民衆を虐殺した(Sétif and Guelma massacre)が、フランスに対する反乱行為として正当化を行い、フランス軍人は処罰されず、1946年以降、特に戦勝国による侵略行為、民間施設への爆撃、虐殺などに対して、ニュルンベルク裁判で創造された規範が一度も適用されず、拘束力を持たなかった事である。と指摘している[51]。 ヴェルナー・マーザーは、ニュルンベルク裁判の問題点として、おおよそ次の点を指摘する。
戦勝国のみで裁判官が構成されており、法廷の中立性を侵している[83]。
事後法であり、法は遡及してはいけないという法の大原則を侵している[84]。(国際連合は、1950年に法の遡及は人権侵害であると声明を出している[85]。)
侵略戦争の定義に関する議論の席でソ連の代表の一人が「人は侵略、侵略と口にするが、その時は何だが知っている。だが、概念を定義するとなると困難に突き当たる」と困難さを述べている[52]。侵略戦争の定義は現在に至っても存在していない[52]。また、侵略戦争の定義が定まれば、困るのは戦勝国側であり、ニュルンベルク裁判以前も以降も戦勝国は国際法違反の侵略行為を繰り返しているからである。これらの侵略行為は、戦後定められたニュルンベルク諸原則が採用されていれば、死刑になる者が出るはずであったが、誰も裁かれることはなかった[86]。
例えばアメリカ軍はベトナム戦争でソンミ村の大量虐殺を引き起こしたが、その戦争犯罪者たちは、ウィリアム・カリー (軍人)を除いて全員無罪となり、カリーも僅か三年で釈放されてしまい、カリーは犯罪者ではなく英雄になった。と身内に対する甘い処理を指摘している[87]。
被告へ拷問や暴行があった[65][64]。弁護団へ提供された資料は、翻訳されておらず、事前の入手は許されず、被告への弁護に使用するのは不可能だった。一方検察は翻訳されており、事前に入手していた[55]。弁護団や被告に有利な資料は行方不明になった[56]。検察側が提示した資料は偽造された可能性がある[88]。法廷に提出された証言の供述文書に対し、不審を感じた弁護側が証人に反対尋問を要請したが拒否され、反対尋問が許可されることはなかった[59]。
例えば、日本に対する原爆投下[89]や、ドイツ人追放である。ドイツ人追放はドイツ降伏後、無防備となったドイツ人やドイツ系住民に対し行われたもので、ドイツ東部領土からドイツ人が追放された。また東ヨーロッパに何世代にも渡って住居していたドイツ系住民もドイツ系というだけで、ロシア、ポーランド、チェコスロバキアの国籍を有していたのにもかかわらず、土地や金銭を奪われて迫害を受けて追放された。この過程により、最大で200万人もの犠牲者が出たとされている。未だに、土地、財産が返還されていないドイツ人、ドイツ系住民に行われた迫害、虐殺行為は、あらゆる国際法に違反しており、ハーグ陸戦条約(特に55条)、ケロッグ=ブリアン条約、大西洋憲章、ジュネーヴ条約、ウィーン条約、多くの国際連合宣言、驚くべき事に戦勝国がニュルンベルク裁判で定めたはずのニュルンベルク諸原則にすら違反していた[90]。 マーザーはニュルンベルク裁判は国際法廷などというものでは決してなく、勝者の法廷であって、戦争を起こした罰を与えるというアメリカの伝統に則ったものであると評している[91]。 裁判における文書資料の証拠能力についてデイヴィッド・アーヴィングは、ニュルンベルク裁判において、連合国側がドイツ政府からタイプライターや印章などを押収しており、ドイツ政府の本物の文書を手本にして、本物と同じレベルの文書の偽造が可能な状態になっていた。と指摘している[92]。 ドイツのゲルト・シュルツ-ロンホフ(Gerd Schultze-Rhonhof)(元ドイツ軍少将)は、2014年に連合国側からドイツに返還された行政文書には偽造文書が多く含まれている。と指摘した。 これらの偽造文書は、ドイツの本物の行政文書とは違う種類の用紙に書かれていたので、容易に識別が可能である(Schultze-Rhonhof 2014)。 ゲルマー・ルドルフは、それらのドイツの行政文書の中には、本物の用紙に書かれた偽造文書があるとしている。終戦時、連合国はドイツの公式な文書を全て押収しており、それらの用紙を使用している為、偽造であると簡単には判別することが出来ない。と主張している[93]。 ニュルンベルク裁判で検察が提示した証拠文書の多くは、原本ではなく文書の写し(コピー)が使用され、しかも検察側は証拠文書の原本を提示しようとしなかった。文書の写し(コピー)では改竄されている可能性がある為、裁判において、このような写しの文書は証拠能力が極めて低いとされている[94]。 現在、正史派も検察側による捏造文書だと認めている証拠資料はカティンの森事件の報告書である(ニュルンベルク裁判資料 USSR-54)。 法廷に提示された詳細にわたる虐殺の報告書は、ソ連の調査委員会により作製されており、ソ連の検察官がファシストによる虐殺だと主張を行ったが、全て捏造された物で、実際はソ連の犯行であった[54]。 ソ連の調査委員会がカティンの森事件の調査報告書を捏造していたが、正史派達はその調査委員会が作製した他の報告書は捏造されておらず、正しいものであると信じ込んでいる事が指摘されている[95]。 検察側が捏造文書を使用した為、弁護団が検察に対し捏造文書を使用しないように抗議を行っている[54]。 ニュルンベルク裁判でユダヤ人犠牲者数の600万人が決定されたユダヤ人犠牲者の600万人の人数は、ニュルンベルク裁判によって公式の人数とされた。 世界ユダヤ人会議が570万人という暫定的な人数を検察に提示し、検察側は起訴状を作成する際、この人数を採用する事を決定している。 1945年6月12日にニューヨークで行われた世界ユダヤ人会議とロバート・ジャクソン (法律家)との会議の議事録によると、世界ユダヤ人会議が「公式、半公式の情報源」から得た推定数に基づき、600万人を提示した。 さらに世界ユダヤ人会議は、「ユダヤ人は、この戦争の最大の被害者である」と強調し、「ユダヤ人の悲劇は、他の民族の苦しみを超えている」と主張した[96]。 ナウム・ゴールドマン(en:Nahum Goldmann)は世界ユダヤ人会議の創設者であり、長年会長を務めた。 ナフム・ゴールドマンは、1940年半ば、ニューヨークタイムズに対し、「ナチスが勝利した場合、600万人ものユダヤ人が虐殺されるだろう。」とコメントしている。 1940年の時点でのドイツは、ユダヤ人に対して国外追放政策を採っており、1942年のヴァンゼー会議より1年以上も前の時期であった。 何故、ゴールドマンは1940年の時点で、これから600万人が虐殺される事を知っていたか?大きな謎であると指摘されている[97]。 アウシュヴィッツ、マイダネク、ラインハルト作戦の三つの収容所(ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所)などは、終戦直後の推定死亡者数から大幅に下方修正しており、何百万人も減少している。さらに各収容所の死亡者数は本当はよく分かっておらず、研究者により死亡者の推定数は大幅に違うのに、何故か死亡者の合計を600万人前後に一致させて来るのはおかしい。と主張されている。[98]。 ユダヤ人の犠牲者600万人の人数は、何故かニュルンベルク裁判(1945年から1946年)の検察の主張のままになっている。 ヴィルヘルム・ヘットル(英: Wilhelm Höttl)は、ニュルンベルク裁判でユダヤ人の犠牲者数600万人に関して有力な証言を行っている。そのお陰で、裁判中は戦犯の被告から、特権保持者となった[102]。 弁護側は、ヴィルヘルム・ヘットルに対して、反対尋問しようとしたが、妨害され尋問出来なかった[103]。 ヴィルヘルム・ヘットルは、金銭の為に情報を捏造する人物だという事が指摘されている。戦後、ヘットルはアメリカの諜報機関で働いた[104]。 不起訴になったカティンの森事件ニュルンベルク裁判でソ連代表検事のイオナ・ニキチェンコは、カティンの森の虐殺の責任をドイツ側に押し付けようとした。 1946年7月にカティンの森事件について、ドイツによる犯罪かどうか討議が行われたが証拠不十分とされた。 ソ連側は1990年に崩壊するまでドイツの仕業と主張していた。 1992年10月にロシア政府は、虐殺をスターリンが指令した文書を公表し、ソ連側が犯人であることが確定した[105][106][107][108]。 発見されなかったヒトラーのユダヤ人絶滅命令や計画書ニュルンベルク裁判の判決によれば、ナチスやヒトラーはユダヤ人を絶滅させる思想や計画を持っていたとされている[109]。 だが、現在(2024年11月)においても、そのようなヒトラーの命令書や計画書は発見されていない。 また、ユダヤ人絶滅の設計図(青写真)も存在せず、絶滅の為の国家予算も付かず、一元的な管理を行う組織も無かった。 日本の主な専門書も、ヒトラーのユダヤ人絶滅命令を示す文書は見つかっておらず、ヒトラーの命令書があったかは不明であり、おそらく存在しなかったのだろう (特に栗原説が顕著である。栗原は、ヒトラーのユダヤ人絶滅命令書なるものが、歴史家の努力にもかかわらず今日に至るまで見つかっていないし、またそのような文書が存在したという事を示唆する史料も存在しない[110]。と書いている) (ヒルバーグも、ユダヤ人絶滅は法律や命令の産物というよりも、精神とか共通理解の問題だった。それぞれの組織は絶滅過程において、それぞれの実行する方法を発見せねばならなかった[111]。と書いている) としている[112][113][110][114] [111][115] ニュルンベルク裁判でフランス代表団の一員であり補佐官を勤めたレオン・ポリアコフ(英: Léon Poliakov)(ユダヤ人)は、1951年にこのように述べている。
ドイツ軍内に居たドイツ軍人による反ヒトラー、反ナチスの反体制レジスタンス組織は、ドイツ軍諜報部にも存在していた。 レジスタンス達は、ヒトラーやナチスを非難出来る材料を探しており、連合国側へ情報を流すつもりであった。 にもかかわらず、ユダヤ人絶滅作戦を探知することが出来なかった。一般のドイツ軍人、親衛隊員がユダヤ人絶滅作戦を知らなかったのは有り得るとしても、機密情報にアクセス出来るドイツ軍諜報部内のレジスタンス組織でもユダヤ人絶滅作戦を探知する事が出来ないのはおかしい。と主張されている[117]。 ローフス・ミシュは1940年から1945年まで総統警護隊でヒトラーの側近として警護を任務としており、秘密会議にも警護として出席していたが、ユダヤ人絶滅について会議で議論された事は無く、聞いた事も無かった。と述べている[118]。 ヒトラーの側近に居たユダヤ系軍人ヒトラーの側近であったドイツ空軍元帥エアハルト・ミルヒ(英: Erhard Milch)(独: Erhard Milch)はユダヤ系の軍人であった。 第三帝国の敗戦まで戦ったミルヒは戦犯として裁かれ有罪判決を受けた。(エアハルト・ミルヒ裁判) ミルヒの上司であったヘルマン・ゲーリング空軍元帥が、ユダヤ系のミルヒを庇っていたとされる[119]。 ベルンハルト・ロッゲ(英: Bernhard Rogge)は、ユダヤ系ドイツ軍人であり、第二次世界大戦中は、ドイツ海軍の提督として活躍し、戦果を上げた。この功績からヒトラーから柏葉付騎士十字章を授与された。最終階級は海軍中将であった。 ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ提督は、ニュルンベルク裁判で、自分が率いたドイツ海軍は反ユダヤ主義ではないと証言した[120]。 ロッゲ提督も、ドイツ被告の為に弁護を行った[121] 捏造されていたヒトラーの発言ヒトラーの発言に関して、大量の捏造が行われている。と指摘されている。 例えば「私は、良心という堕落した幻想から、人間を解放している。」や、「テロリズムは最良の政治的武器である。突然の恐怖ほど人々を駆り立てるものはないからだ。」、「彼らは私を無学な野蛮人と呼んでいる。そうだ、我々は野蛮人だ。我々は野蛮人でありたい。それは我々にとって名誉ある称号だ。」 などは、実際にはヒトラーは発言しておらず、捏造発言である。 また、アメリカのプロパガンダ映画である「我々は何故戦うか(Why We Fight)」でも、ヒトラーの発言が捏造されていた事が指摘されている[122]。 ニュルンベルク裁判での検察の主張によれば、ヒトラーは1939年8月22日、オーバーザルツベルクにて、軍司令部にポーランド侵攻を指示し、次のような発言をしたという。 ヒトラーは、自分のことをチンギス・カンに例えて、「我々の強みは素早さと残忍さにある。 私は東方に死の部隊を派遣し、ポーランド語を話す全ての男性、女性、子供を情け容赦なく殺せと命じた。今日、アルメニア人の絶滅について語る者は誰か?」 しかし、この演説を行ったとされる証拠文書は、捏造だと指摘されており、実際にはそんな発言はしていなかった[123] [124]。ドイツ語の記事でも、1939年8月22日のヒトラーのオーバーザルツベルクにおけるチンギス・カン演説は捏造である。と書かれている(独: Ansprache Hitlers vor den Oberbefehlshabern am 22. August 1939)。 現在、正史派がヒトラーの発言として多用しているのは、我が闘争や国会演説でのヒトラーの発言である。 それによれば、「Ausrottung」や「Vernichtung」の単語を使用して絶滅を発言していたとされる。 これについて、ドイツ語圏の修正派により、ドイツ語の誤訳が行われており「Ausrottung」や「Vernichtung」の単語は実際には絶滅の意味では用いられていない、という指摘がなされている。ユルゲン・グラーフ(英: Jürgen Graf)は、「Ausrottung」の意味について、ヒトラーは「我が闘争」では「Ausrottung」を「権力を剥奪する、影響力を奪う」という意味で用いている、としている。 同様に、ヒトラーが国会で1939年9月1日に、ユダヤ人によって「Ausrottung der arischen Völker」(アーリア人の絶滅)の戦争が開始されようとしている。と発言しているが、グラーフは、ヒトラーはユダヤ人がヨーロッパ住民を「絶滅しようとしている。」という意味で「Ausrottung」を使用しているのでは無く、ユダヤ人がヨーロッパ住民を「従属させようとしたり、権力の剥奪を行おうとしている。」と言う意味で使用している、としている [125]。ゲルマー・ルドルフは、「Vernichtung」は必ず殺害の意味がある訳ではない。と指摘している。 具体的には、経済的な基盤や、社会的な結束において、「喪失」や「破壊」を意味している。 また、「vernichtende Niederlage」はスポーツにおいて、「惨敗」を意味する言葉であり、殺害などの意味は持っていない[126]。 村瀬興雄は、ヒトラーが絶滅を発言していても、脅迫や宣伝的なものに過ぎず、絶滅命令の性格を備えていない。と指摘している[112]。 大幅に誇張されていた強制収容所の死亡者最初にダッハウ収容所である。かつては、10万人や45万人もの犠牲者が出たとされていた[127]が、現在では41,500人前後だと判明しており、その内の3分の1以上が終戦までの6か月間に腸チフスなどで病死したものであった。[128]。 次にザクセンハウゼン収容所である。1946年2月19日の法廷において、ソ連はザクセンハウゼン収容所において、84万人のソ連兵が皆殺しにされたと主張した[注釈 13]。現在、ザクセンハウゼン収容所の公式の資料館は、犠牲者を数万人(Zehntausende)としており、そのうち、ソ連兵捕虜の犠牲者は1万3千人以上となっており、当時のソ連側の主張のうち少なくとも75万人は誇張であると見られている[注釈 14]。 次はマイダネク収容所である。ニュルンベルク裁判当時は、ソ連は150万人の犠牲者が出たと主張された[注釈 15]一方で、現在(2023年1月時点)のマイダネク収容所の公式の犠牲者の数は公式サイトなどにより、8万人(そのうち6万人がユダヤ人)[注釈 16]としており、裁判当時のソ連側の主張とは実に142万人もの開きがある。なお、この150万という人数は、ソ連崩壊後大幅に下方修正されている。[要出典] ラウル・ヒルバーグによると、マイダネクのユダヤ人死者は5万人である[129]。カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno)によるとマイダネクの死亡者の総数は約4万人と推定している(そのうちのユダヤ人の割合は不明)[130]。ティル・バスティアン(Till Bastian)によると、マイダネクの死亡者の総数は約2万人である[131]。 さらに、最も知られた収容所であるアウシュヴィッツ収容所についても、現在(2023年1月時点)の公式見解や公式サイトで判明している数字と裁判当時の主張の間に約300万人近くの開きがある。アウシュヴィッツ収容所の死亡者数は、裁判当時の人数は400万人とされたが、現在では下方修正されて110万人としている[注釈 17]。だが、公式の110万も、確実ではなく、それ以下だとする説もある。 ダッハウ収容所でガス室による虐殺があったとの証言がニュルンベルク裁判で行われた(後述)。公式サイトにも書いてある通り[注釈 18]、ガス室による虐殺は実際には無かった。 ニュルンベルク法廷における虚偽証言ニュルンベルク法廷において、ガス室の虐殺が証言されたにもかかわらず、戦後の調査でガス室が稼働してなかった事が確認され、その証言が虚偽だと判明している収容所がある。ダッハウ収容所(独: KZ Dachau)におけるガス室である。 1946年1月11日、ニュルンベルク法廷において、ダッハウに強制収容されていたフランツ ブラハ(Franz Blaha)は嘘の証言をしない宣誓を行ってから、ダッハウにおけるガス室による虐殺の証言を行った [注釈 19]。しかし、実際には、ガス室による虐殺証言は虚偽であり、戦後の調査では、ガス室による虐殺は行われていなかった。 芝健介の書籍では、ダッハウにガス室は有ったが、ガス室は使用されなかった。と記載している[132]。 現在のドイツのダッハウの公式資料館では
と説明している[注釈 18]。 アインザッツグルッペンの犠牲者数を巡る諸説1947年9月29日から1948年4月10日にかけて、アメリカ軍はニュルンベルク継続裁判のアインザッツグルッペン裁判を開廷した。 アインザッツグルッペンの設立当初は、無差別の射殺は行われておらず、女性や子供を標的にすることもなかった。また、大量射殺を行う命令や、大量射殺の計画も与えられていなかった。大量無差別射殺は1941年8月から始まったという[133][134][135][136][137]。 アインザッツグルッペン裁判では、検察側は約100万人が犠牲になったと主張し[138][139][140]、日本の主な書籍もその説を踏襲している[139][141][142]。だが、実際には100万人以上もの射殺を行った証拠が見つかっている訳では無い。 アンネッテ(Annette Weinke)は、裁判の100万は誇張されたもので、実際は56万人である[135]。と指摘している。 ユルゲン・グラーフ(英: Jürgen Graf)(独: Jürgen Graf)は、主に以下の理由を挙げて、アインザッツグルッペンの犠牲者の推定数は多過ぎると主張している[143]。
ニュルンベルク裁判の判決や証言と、現在の公的見解との相違※公式や学者による見解は、2023年6月現在のものである。 公式見解では、死亡者は110万人である[注釈 17]。
1944年11月27日から1944年12月2日まで、ルブリンでソ連によって開廷されたマイダネク裁判(独: Majdanek-Prozesse)において、犠牲者の数は最高潮に達し、ソ連の検事は、170万人が犠牲になったと主張した[148]。 裁かれた被告の6人全員が死刑判決にされた。(その内の1人は自殺) ニュルンベルク裁判(1945年~1946年)では、20万程減らし、150万人となった。 公式見解では、マイダネクの死亡者は8万人である[注釈 16]。
公式見解では、死亡者の総数は数万人程度である。(そのうちソ連兵の死亡者は1万3千人である。)[注釈 14]
現在、水蒸気で虐殺した記事は全て削除されており、ガス室や、エンジンの排気ガスで虐殺した記事になっている[150][151][152][153]。エンジンの排ガスがディーゼルか?ガソリンか?は、はっきりしておらず、ホロコースト大辞典[154](721ページ)、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅[155][156](上巻645ページ下巻558ページ)などの大著でも、ディーゼルかガソリンかはっきり書かず、言及を避けている。現在、ガソリンエンジンの排ガスが有力であるとされている[157]。
現在の見解では、ダッハウでガス室による殺害は行われていない[注釈 21]。
現在、ベルゲン・ベルゼン収容所には、電気ショック装置はもちろん、ガス室も存在しなかった事が判明している[159][160][161][162][163]。
戦後の調査・研究により、人間の死体から石鹸は作られていなかった事が判明している[165][166][167][168][169][170]。 歴史修正主義者を厳しく批判しているティル・バスティアン(独: Till Bastian)や、ホロコースト肯定派の重鎮、デボラ・リップシュタット(英: Deborah Lipstadt)も、人間の死体から石鹸を作ったという証言を否定している[171][172]。 ラウル・ヒルバーグも人間石鹸は噂話だとしている[173]。1985年のツンデル裁判(英: R v Zundel)においても、ラウル・ヒルバーグはツンデル側の弁護士から人間石鹸が事実だと思うか?と質問されて、「人間石鹸の話は事実ではない。」と証言している[174]。 嫌疑をかけられたダンツィヒ解剖学研究所所長のルドルフ・スパナー(Rudolf Spanner)は逮捕され、1947年から1948年に渡って、取り調べを受けた。スパナー教授は、人間の死体から石鹸を作ってないと証言し、ダンツィヒの研究所にも家宅捜索が行われた。その結果、ダンツィヒ研究所には石鹸の製造を行う設備が無い事が確認された[175]。
現在、全ての学者や資料は、この証言を事実だと認めていない。 ヒトラーが原爆の開発に興味を示さなかった為、開発は中止され、第2次世界大戦中にドイツが原子爆弾を完成することは無かった。 第2次世界大戦中に、原爆を実用化出来たのは、唯一アメリカだけであった[177]。
実際は、ソ連による虐殺であり、その責任をドイツ側に押し付けようとしたものであった [106][107][108][179]。
現在の正史派の主張では、この人数は約15万人にまで減少している[181][182]。修正派の見解では、死亡者は千人以下と推定している[182] 日本国内のニュルンベルク裁判の書籍ヴェルナー・マーザーのニュルンベルク裁判(1979年)[58]ヴェルナー・マーザーのニュルンベルク裁判は、裁判を批判的に取り扱っており、被告人が暴行に晒されたり[57]、弁護団が活動の妨害を受けたり[55]、弁護側に有利な証拠が紛失したりする[56]記事を載せている。翻訳者の西義之は、あとがきで「東京裁判を、人種的偏見に満ちた復讐裁判だとする意見があるが、ナチス第三帝国崩壊後のドイツ指導層の受けた侮辱と冷遇とつき合わせてみると、なんとマッカーサーの軍隊は紳士的であった事かと今更のように驚いてしまう」と書いている[183]。 芝健介のニュルンベルク裁判(2015年)[184]芝健介のニュルンベルク裁判(2015年)は、現在では誇張された人数と判明しているアウシュヴィッツ400万人(現在の公式の人数は約110万[注釈 17])、マイダネク150万人(現在の公式の人数は約8万人[注釈 16])と、現在の下方修正された公式の死亡者は載せずに、裁判当時の原文のママの死亡者数「アウシュヴィッツ400万人、マイダネク150万人」として本に載せている[185]。 芝は、アウシュヴィッツの公式の110万人[注釈 17]という死亡人数を、以前に執筆した他の書籍(2008年の「ホロコースト」[186])では正しい死亡数として書いている[187]のに、このニュルンベルク裁判の書籍(2015年)[184]においては400万人であるかのように書いている[185]。 また、マイダネク収容所にしても、ニュルンベルク裁判(2015年)[184]では150万人のように書いているが、以前に執筆した書籍「ホロコースト(2008年)[186]」の時点で、公式の人数としてマイダネクの死亡者は約20万人[188]として挙げている。ただし、この公式の人数は2008年の時点では間違いである。すでにマイダネクの公式の人数は、2005年に、マイダネク記念館の責任者のトマシュ・クランツ(Tomasz Kranz)により、下方修正されて7万8千人[注釈 22]」になっており、芝が、2008年4月25日初版の「ホロコースト[186]」を書いた時には、マイダネクの公式の死亡者は7万8千人であり、芝が「ホロコースト(2008年)」の中で、公式の人数として挙げた「20万人[188]は間違っていた。なお、ラウル・ヒルバーグによると、マイダネクのユダヤ人死者は5万人である[129]。 アウシュヴィッツの死亡者については、現在、ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac)の63万人説、フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)の51万人説や、アーサー・R・バッツ(Arthur R. Butz)などによる15万人説などもある。プレサックの63万人説は、日本の専門書でも紹介されている[189]。 芝の、ドイツの戦争犯罪についての記事には、キーウ市内で19万5000人が殺され[190]、ハリコフで19万5000人が殺され[190]、クリミア半島では船に住民を満載して沈めて14万4000人を虐殺して[190]、スターリングラードの戦いでは、ソ連軍は住民の虐殺死体を多く発見し、ユダヤ人の死体にはダビデの星の焼きごてが押してあった[190]と記載している。 芝は、カティンの森事件について、「1941年9月、捕虜になった多数のポーランド軍将校がスモレンスク郊外のカティンの森で大量虐殺された」とし、「1943年春にドイツは「ソ連によって、カティンの森でポーランド将校が大量射殺された」と発表し、それに対し、ソ連は裁判でドイツの犯行と主張した。この事件は法廷で争われる事になった[191]」という書き方をして、事件がソ連の犯行によるものだったのに関わらず、最終的にそれをはっきりと書いていない。 芝の、ニュルンベルク裁判に対する批判として、「法の不遡及」と、「戦勝国が裁判官を務め、敗戦国が被告となり、公正な裁きなど出来ない」、という2つの大きな問題に触れている[192]が、「裁判に対するこうした異見は、裁判を阻害する影響力を持たなかった」と結論を述べている[192]。 アンネッテ・ヴァインケのニュルンベルク裁判(2015年)[193]アンネッテ・ヴァインケ(Annette Weinke)のニュルンベルク裁判(2015年)の主な記事の箇所を列挙すると以下のようになる。
他のニュルンベルク裁判の書籍として、ニュルンベルク裁判の通訳(2013年)[200]がある。 映像化
脚注注釈
出典
参考文献
関連書籍
関連項目
外部リンク
|