バングラデシュ独立戦争
バングラデシュ独立戦争(バングラデシュどくりつせんそう、ベンガル語: বাংলাদেশের স্বাধীনতা যুদ্ধ, ウルドゥー語: جنگ آزادی بنگلہ دیش)は、東パキスタンの独立をめぐって1971年3月26日に勃発した戦争である。 前史1952年、西パキスタン側のパキスタン中央政府による支配に対し、人口では全土の過半数を占める東パキスタン地域が、自国言語バングラ(ベンガル語)[1]を守るため(ベンガル語国語化運動)、また、西パキスタンによる搾取から解放されるために立ち上がった。政府に対するベンガル人の反発は激しさを増し、第二次印パ戦争の講和(タシケント宣言)でインドに譲歩したことや、急激なインフレへの不満が重なり、1962年から東パキスタン各地で暴動が起こり、自治権の拡大などを求めた1966年の6点運動[2]を経て、1969年の東パキスタン大量蜂起へと発展、パキスタンの第2代大統領として軍事政権による独裁政治を行っていたアユーブ・ハーンを失脚に追い込んだ。 また、この大量蜂起によって、アガルタラ陰謀事件の撤回と、ベンガル人の指導者であったシェイク・ムジブル・ラフマンとその同僚の無罪を勝ち取った。 1970年のパキスタンの国民議会選挙で、全パキスタン・アワミ連盟が東パキスタンで過半数を獲得した。しかし、同党は西パキスタンで1議席も獲得できなかったため、中央政府の指導者たちは憲法に反し、アワミ連盟に権力を譲ることを拒んだ。1971年3月7日、これに対してムジブル・ラフマンが、10万人が立ち会う元で中央政府への非協力を宣言した。 独立戦争東パキスタンのベンガル人独立派に対し、中央政府は軍を空輸して武力鎮圧を試みた。 →「バングラデシュ大虐殺 (1971年)」も参照
大量の東パキスタン住民が殺戮から逃れるために難民となって、かねてよりパキスタンと対立していた隣国のインドに亡命した[1]ことからインド政府が同年12月3日に介入した[1](第三次印パ戦争)。 →詳細は「第三次印パ戦争」を参照
国力ではインドに劣るパキスタンの軍隊が劣勢となり、約2週間後の12月16日に撤退。東パキスタンは「バングラデシュ人民共和国」として独立を果たした。 戦後2013年、イスラム協会の幹部であったアブドゥル・カデル・モッラ(Abdul Quader Molla)が戦争時の虐殺等の罪によって死刑が確定した。大統領は恩赦を出したがモッラは拒否し、同年12月12日、死刑が執行された。 インドのアッサム州では、2019年に不法移民の排除を目的とする国民登録簿が作成された。名簿から除外された約190万人の多くはイスラム教徒であり、バングラデシュ独立戦争時に東パキスタンから流出した難民とその子孫であった[3]。 関連書籍
脚注出典
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