プエルトリコ
プエルトリコ自治連邦区(プエルトリコじちれんぽうく、西: Estado Libre Asociado de Puerto Rico、英: Commonwealth of Puerto Rico)、通称プエルトリコ(Puerto Rico[注 1])は、カリブ海北東に位置するアメリカ合衆国の自治的・未編入領域であり、コモンウェルスという政治的地位にある。プエルトリコ本島、ビエケス島、クレブラ島、ドミニカ共和国との間のモナ海峡にあるモナ島などから構成される。ヴァージン海峡を隔てて東にヴァージン諸島が、モナ海峡を隔てて西にドミニカ共和国が存在する。主都はサン・フアン。 国名自主憲法によるスペイン語名称は、Estado Libre Asociado de Puerto Rico(エスタード・リーブレ・アソシアード・デ・プエルト・リーコ)。通称 Puerto Rico。 日本語の表記は、プエルトリコ、プエルト・リコ、プエルト・リーコなど。漢字では波多黎各と表記される。 スペイン語でプエルトは「港」、リコは「豊かな」を意味し、プエルト・リコは「豊かな港、美しい港」の意である。ヨーロッパ人の到来以前は、この島は先住民のタイノ族によってボリケン (Borikén、Boriquén)、またはボリンケン (Borinquen) と呼ばれていた(ボリンケンとは「勇敢なる君主の国」を意味する)。現在のプエルトリコの名称は、一説にクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がサン・フアンに入港したときに¡Qué Puerto Rico!(なんと美しい港か!)と叫んだことに由来するといわれている[1]。米西戦争後、アメリカに併合されてからはポルト・リコ (Port Rico, Rich Port) と地名表記も英語化されてきたが、プエルトリコ人の感情に配慮して1932年に英語でもプエルト・リコ (Puerto Rico) と表記されるようになった。 歴史→詳細は「プエルトリコの歴史」を参照
先コロンブス期ヨーロッパ人の到達以前のプエルト・リコは南アメリカのギアナ地方から海を渡ってカリブ海周辺の島々で生活していたアラワク族系のタイノ人が居住しており、島はボリンケンと呼ばれていた。 スペイン植民地時代→詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照
1493年11月19日のクリストバル・コロンによる到着以来、スペインやアメリカをはじめとするヨーロッパ人によって開発が続けられ現在に至る。当初、プエルトリコ島は「聖ヨハネ(サンフアン)島」と呼ばれており、プエルト・リコ(豊かな港の意)とはサン・フアン市街のみを指していた[1]。しかし、やがて商人や島を訪れる人々は島そのものをプエルトリコ島と呼ぶようになり、一方でサン・フアンは港と首都を指すようになった[注 2]。 プエルトリコの本格的な征服は、コロンによる発見から15年の経過した1508年にスペインから総督としてやってきたフアン・ポンセ・デ・レオンらのコンキスタドールによってなされた。3万人ほどいたといわれているタイノ人は征服され、プエルトリコへの本格的な入植がはじまった。ポンセは島を「サン・フアン・プエルト・リコ」と呼んだ。最初の入植地はサン・フアン港の近くにあるカパラに造られたが、1521年にサン・フアン・ビエホ(オールド・サン・フアン)に移された。
→詳細は「プエルトリコ総督領」を参照
スペイン人はインディヘナや黒人奴隷を使って金を採掘したが、1570年代に金が掘りつくされると以降はラテンアメリカでも珍しい定住型の農業植民地となり、この時期には生姜が輸出されるようになった。また同時にスペインにとって、インディアスの植民地を防衛するための重要な拠点となったこの島は、ハバナやカルタヘナ・デ・インディアス、サント・ドミンゴと同様に16世紀後半からヌエバ・エスパーニャ副王領からの収益で要塞化され、モーロ要塞の建設が開始された。 16世紀から18世紀にはイギリスやオランダの海賊の攻撃を何度か受けたが、フランシス・ドレーク卿が撃退されたのをはじめとして、海賊の襲撃は失敗に終わり、プエルトリコは一貫してスペインの植民地だった。1797年のイギリスによる攻撃を最後に以降100年近く平和の時期が訪れる。 スペイン・ボルボン朝のフェルナンド7世がフランス帝国のナポレオン・ボナパルトによって退位させられたことをきっかけに1808年に勃発したスペイン独立戦争は、ラテンアメリカ大陸部のクリオージョに自治、独立の意識を芽生えさせ、ベネズエラのシモン・ボリーバル、アルゼンチン(当時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州)のホセ・デ・サン=マルティン、メキシコのミゲル・イダルゴらがスペインからの解放戦争を進めたが、フランス領サン=ドマングでのハイチ革命の際には黒人奴隷の蜂起によって白人支配が崩壊したこと、ラテンアメリカ各地からの王党派の難民が多く亡命してきたことなどにより、スペイン帝国最後のインディアス植民地となったキューバとプエルトリコではクリオージョによる独立運動は発生しなかった。 プエルト・リコでは19世紀に入るまで小農民による自給自足的な経済が営まれ、スペインによる植民地支配も相対的に緩やかなものだったが、こうして流入した難民によって1833年には人口33万人を数えた。スペイン政府によってキューバと同様に、奴隷解放によって砂糖供給から没落したサン=ドマングに代わるためのサトウキビのプランテーションが奨励されたが、キューバに比べて資本集積の度合いが低かったために効率的なプランテーション形成が進まず、結果として国際競争力を確保できなかったため、キューバやペルーやブラジルの砂糖に押されて砂糖生産は停滞し、代わりに島中央部の山間部で小農によって行われたコーヒーが主要輸出商品となった。このため、キューバやブラジルと同様に黒人奴隷制度は維持されたものの、プエルト・リコでは砂糖プランテーションが発達しなかったために黒人奴隷の大規模な導入には繋がらなかった。 19世紀後半になると、同様にスペインの植民地だったキューバと連動した独立運動が起こり、1868年には山間部で最初のラーレス独立蜂起が勃発した。スペイン当局は1873年には奴隷制を廃止したものの、もはやプエルトリコ人の独立への願いを止めることはできなかった。
やがて第二次キューバ独立戦争がはじまると、プエルトリコでも反乱が起き、焦ったスペイン当局により、1897年にプエルト・リコ側とスペイン側の合意によって自治が認められ、1898年3月に自治政府が成立するが、同年4月にハバナで起きた戦艦メイン号の謎の爆沈事件により勃発した米西戦争で8月にはアメリカ軍に占領され、戦後にスペインからアメリカに割譲され、戦争終結のパリ条約によりアメリカ合衆国の領土となった。
戦後、パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコでは、フォラカー法によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体された。キューバは1901年に合衆国の傀儡政権の下の独立が認められたが、プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となった。このため、プエルト・リコでは主権を求める完全独立派、アメリカ合衆国を構成する一州への州昇格派、現状のまま自治権の拡大を求める自治権拡大派の、現在まで続く三大政治潮流が生まれた。 スペインから譲渡された後にはアメリカ合衆国の企業が進出した。1917年に制定されたジョーンズ=シャフロス法によって島民はアメリカ国民としての市民権を得たが、合衆国大統領選挙への選挙権は与えられなかった。また、市民権を得たがために所得税を免除されたものの、徴兵の対象となり、第一次世界大戦では二万人のプエルトリコ人が徴兵され、アメリカ軍の兵士として戦った。
→「進歩のための同盟」も参照
1930年代には自治権拡大派が勢力を拡大し、自治拡大派のルイス・ムニョス・マリンは1938年にプエルトリコ人民民主党を結成した。ムニョスは1940年の上下院選挙で勝利した。1946年にムニョスは人民民主党の綱領から完全独立を除外したため、党内の独立派がプエルトリコ独立党を結成した。1948年では初めて知事の直接選挙が行われ、人民民主党のムニョスが知事に選出された。 その後プエルトリコでは独立運動が激化した。反乱は国民党指導者ペドロ・アルビス・カンポスの指揮のもと1950年10月30日に始まり、島内のさまざまな町で蜂起や反乱事件が続いた。ウトゥアドでは暴徒が虐殺、ハユヤでは一度「プエルトリコ自由共和国」が宣言されたが、その後米国が軍隊を派遣し終局した。サンフアンでは国民党員がラ・フォルタレサ(知事官邸)でプエルトリコ知事のルイス・ムニョス・マリンの暗殺を企てたが失敗に終わった。これらの一連の反乱によって、28名が死亡し、49名が負傷した。 独立を求めた反乱の動きは島内に限らなかった。1950年11月1日、2名の国民党員がワシントンD.C.のブレアハウスを襲撃し、トルーマン米国大統領の暗殺を企てたが未遂に終わった。プエルトリコ国民党による最後の大きな事件は1954年3月1日に起こった。4名の国民党員がアメリカ合衆国下院を攻撃し、プエルトリコの植民地的状況に対して世界的な注目を集めた。 事態を重く見た連邦政府は1952年にはアメリカのコモンウェルスとして内政自治権を付与した。ムニョス知事は合衆国資本を誘致し、工業化が進められたが、それでも満足な雇用が確保できなかったため、多くの農村人口がニューヨークなどの、アメリカ合衆国の大都市に移住した。 二大政党制1967年に州昇格派によってプエルトリコ新進歩党が結成され、1968年の選挙では新進歩党が勝利し、自治拡大派の人民民主党との二大政党制が誕生した。1970年代に福祉制度の拡大が進み、プエルトリコ住民は連邦の社会福祉を生活の糧とするようになった。1998年にアメリカ合衆国の51番目の州昇格を巡る住民投票が行われたが、否決された。 2000年11月の知事選挙では、人民民主党のシーラ・カルデロンが当選し、初の女性知事が誕生した。2004年の知事選挙では、人民民主党のアニーバル・アセベド・ビラが知事に就任した。2009年3月3日、知事は財政破綻を宣言し、自治領政府の公務員の約1割に当たる3万人以上を削減するとの方針を発表した[3]。 2012年11月にプエルトリコの地位変更を巡る住民投票が行われ、州昇格の票が多数を占めた[4]。ただ、実際に州昇格に至るには合衆国議会の審議が必要となるなど多くのハードルが残っている。2015年8月3日、自治政府が支払期限を迎えた債務約5800万ドルのうち62万8000ドルしか支払いができなかったため、ムーディーズにより、債務不履行 (デフォルト)に認定された。債務総額は約730億ドル[5]。 2017年5月3日、連邦地裁に破産申請を行った。債務は700億ドルで、今後は裁判所の管理下で債務整理を進めることになる[6][7]。同年6月11日、州昇格を問う住民投票が行われ、州昇格支持が97%を獲得したが、昇格反対派野党による投票ボイコットの呼びかけもあり、投票率は23%に留まった[8]。同年9月には、ハリケーン・マリアで大波や暴風雨で大規模な被害を受けた[9]。 政治→詳細は「プエルトリコの政治」を参照
現在のプエルトリコはコモンウェルス(英: commonwealth、米国自治連邦区)という特別な立場にあり、住民はアメリカ国籍を保有するものの、合衆国連邦税(所得税)の納税義務はなく、大統領選挙の投票権もない。 合衆国下院に本会議での採決権を持たない代表者(Resident Commissioner[注 3]、任期4年[注 4])を1人送り出すことが認められている。 行政→「プエルトリコ政府」を参照
行政権は知事が有し、知事は普通選挙によって選出され、任期は4年。再選規定は存在しない。立法権は両院制の立法議会が有し、上院の定数は28人、下院の定数は51人である。 政党→「プエルトリコの政党」を参照
自治拡大派のプエルトリコ人民民主党と州昇格派のプエルトリコ新進歩党の二大政党制が確立されている。その他にも現在のような植民地的地位からの独立を目指すプエルトリコ独立党などの独立指向の政党が存在し、ガブリエル・ガルシア=マルケスやエドゥアルド・ガレアーノらをはじめとするラテンアメリカの知識人によるプエルトリコ独立運動を支持する声があるが、機運は高まっていないのが現状である。 軍事プエルトリコは独自の軍事組織を持たないが、多数の米軍基地が立地しているほか、他のアメリカの50州およびコロンビア特別行政区と同様に州兵部隊も保有する。 法律→「プエルトリコ法」を参照
現在、プエルトリコにおいては死刑制度は廃止されている。 地理→詳細は「プエルトリコの地理」を参照
プエルトリコ島は大アンティル諸島の最東端に位置し、西はモナ海峡を越えてドミニカ共和国、東のヴァージン海峡を越えてヴァージン諸島が存在する。大アンティル諸島の中では比較的小さな島であるが、それでも9,104Km2の大きな面積を持つ(四国の半分程度)。火山島であり、川が多い。国内最高峰のセロ・デ・プンタ山 (1,338m) をはじめとする1,000m級の山脈があり、中央山脈によって分割されている。島の3/4が山岳地帯である。ビエケス島、クレブラ島、モナ島、モニート島、デセチュオ島などのプエルトリコ本島の周囲にある小島も含む。ビエケス島とクレブラ島はヴァージン諸島のすぐ近くということもあって、スパニッシュ・ヴァージン諸島などと呼ばれている。北部は雨が多く、熱帯雨林が形成されており、南部は乾燥し、サバナが形成されている。 亜熱帯に属し、平均気温は25.4℃ほどの過ごしやすい気候である。8月から10月はしばしばハリケーンが襲来し、多大な被害をもたらす。 行政区分→詳細は「プエルトリコの市町村」を参照
主要な都市としては、サンフアン、バヤモン、カロリーナ、カグアス、アレシボ、ポンセ、マヤグェスなどが挙げられる。 経済→詳細は「プエルトリコの経済」を参照
ラム酒生産、観光、製薬、農漁業などが主な収入源である。特に観光業の占める割合は大きく、アメリカ合衆国に移住したプエルトリカンの送金も大きな収入源である。また、製薬は、米国に属領法人優遇税制があるため、米国製薬会社が節税のためにプエルトリコを利用していた。 2017年5月3日、連邦地裁に破産申請を行った。債務は700億ドルで、今後は裁判所の管理下で債務整理を進めることになる[10][7]。 観光→詳細は「プエルトリコの観光」を参照
主都はサンフアン。その他に、ビーチの綺麗なコンダド、著名美術館のあるポンセ、巨大原始林があるエル・ユンケ、そして世界最大の天文台の所在地として有名なアレシボ(アレシボ天文台)等がある。 交通→詳細は「プエルトリコの交通」を参照
道路→詳細は「プエルトリコの道路」を参照
鉄道→詳細は「プエルトリコの鉄道」を参照
航空→詳細は「プエルトリコの空港の一覧」を参照
国民→詳細は「プエルトリコの人口統計」を参照
人口2000年に367万人だった人口は、経済不振の影響や2017年に起きたハリケーン・マリアの被害を受け、2022年現在275万人以下にまで急速に減少している[12]。そのため、アメリカ本土に住むプエルトリコ人(約580万人)が、プエルトリコの人口を超える状態となっている。 民族島の住人はスペイン系をはじめとする白人からアフリカ系の黒人、タイノ系インディヘナ、そして最近増えつつある中国人(華僑)まで、ありとあらゆる肌の色が共存している。早くから異人種間の結婚が認められてきたため、混血が進んでいる。 プエルトリコ住民は、アメリカ合衆国のパスポートを所持し、アメリカドルを使い、米国市民としての意識も高い。 言語地域の体制にはアメリカ合衆国の影響を大きく受けるが、島の住人の大多数は公用語の一つである英語はほとんど使わず、スペイン語しか話さない。メディアを含め日常生活ではスペイン語が使われている。そのため文化的にはスペイン語圏の中南米諸国とのつながりが非常に深い。 宗教プエルトリコでは、キリスト教が主流である。(カトリック教会とプロテスタント) 福祉→詳細は「プエルトリコの福祉」を参照
貧富の差が激しく、島民の多くは政府提供の低所得者向け団地に住む。しかし、アメリカ領土として唯一ユニバーサルヘルスケア制度を持ち、島民たちは無償で医療サービスを受けられる。そのためにフランス領マルティニークやグアドループと同様に福祉植民地とも呼ばれている。 教育→詳細は「プエルトリコの教育」を参照
2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は94.1%である[14]。 主な高等教育機関としては、プエルトリコ大学(1903年)などが挙げられる。 文化→詳細は「プエルトリコの文化」を参照
食文化→詳細は「プエルトリコ料理」を参照
文学コンストゥンブリスモによって生まれた詩人・マヌエル・アロンソの『エル・ヒバロ』は、プエルト・リコのクリオージョ文学の古典とされている。それ以後の代表的な作家としては、1976年の『マチョ・カマチャのグアラチャ』などで知られる、ルイス・ラファエル・サンチェスが挙げられる。 絵画→詳細は「プエルトリコ美術」を参照
代表的な画家としては、19世紀後半にセザンヌの影響を受けたフランシスコ・オジェールと彼の代表作『通夜』が、20世紀においてはラファエル・トゥフィーニョが挙げられる。 音楽→詳細は「プエルトリコの音楽」を参照
キューバ、中央アメリカ、コロンビア、ベネズエラ、ドミニカ共和国、エクアドル、ペルーなどのラテンアメリカ諸国で広い人気を持つサルサはニューヨークに移住したプエルト・リコ人のテゴ・カルデロンが、キューバ音楽の伝統を受け継いで1970年代後半にニューヨークで完成させた音楽である。1980年代にパナマで生まれたスパニッシュ・レゲエが、1990年代にヒップホップやボンバなどの影響を受けて成立したレゲトンもプエルト・リコの音楽である。 世界遺産プエルトリコには、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件ある(詳細は、ラ・フォルタレサとサン・フアン歴史地区を参照)。 祝祭日→詳細は「プエルトリコの祝日」を参照
著名な出身者→詳細は「プエルトリコ人の一覧」を参照
ボリクァ (Boricua) という言葉は、かつてスペイン人が入植する以前から住んでいる住民を意味していたが、現在ではプエルトリコ住民やプエルトリコ系もすべて含む。また、プエルトリコ系アメリカ人のうち、ニューヨーク近郊で育った人間は、ニューヨリカン (Newyorican) と呼ばれる。ボリクァもニューヨリカンも民俗的背景だけでなく、彼らの音楽や話すスペイン語訛りなど文化的背景も指す。
ティト・プエンテ、マーク・アンソニー、ジェニファー・ロペス、エリック・エストラーダ、ファット・ジョーなどは、プエルトリコ人の親を持つニューヨリカンである。
→詳細は「サッカープエルトリコ代表」を参照
→「Category:サッカープエルトリコ代表選手」も参照
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
|