プファルツ家プファルツ家(フランス語: Maison palatine)は、ヴィッテルスバッハ家のうちドイツ・プファルツ地方を治めていた一門のことを指す。上バイエルン公兼ライン宮中伯ルドルフ1世を始祖とし、その息子ループレヒト1世は選帝侯位を獲得し、曾孫のループレヒト3世はローマ王に選出されている。ループレヒトの息子によって一族の分枝が形成され、その中でズルツバッハ家のカール4世フィリップ・テオドールはバイエルン家が断絶したことでバイエルン選帝侯位も継承し、続くビルケンフェルト家のマクシミリアン4世ヨーゼフは王号も獲得し、それは1918年まで続いた。また一族からは北欧3国(デンマーク・スウェーデン・ノルウェー)の君主やギリシャ国王も出ている。 概要起こりとバイエルン家との分化1180年にオットー1世がバイエルン公に封じられて以降、バイエルンの地はヴィッテルスバッハ家が統治するところとなったが、その息子であるルートヴィヒ1世はヴェルフ家のライン宮中伯ハインリヒ6世が1214年に子を残すことなく死去したことを受けて宮中伯位を継承する。ルートヴィヒ1世の息子オットー2世は1222年にハインリヒ6世の妹であるアグネスと結婚したことでライン宮中伯位を継承する正統性を獲得し、結果、プファルツ地方はバイエルンとともにヴィッテルスバッハ家が代々世襲するところとなった。 オットー2世の息子の代でバイエルンは二分化され、長男のルートヴィヒ2世が上バイエルンとライン宮中伯領を、次男のハインリヒ13世が下バイエルンをそれぞれ継承している。ルートヴィヒ2世が1294年に死ぬとライン宮中伯位は長男のルドルフ1世が単独で継承する一方で上バイエルンの地は次男のルートヴィヒ4世バイエルン王と共同統治している。しかし、両者は後に対立し、1314年にルートヴィヒ4世がローマ王に選出されると、ルドルフ1世はハプスブルク家の対立王フリードリヒ3世を支持して1317年にルートヴィヒ4世により敗北、ライン宮中伯は剥奪されて1319年に失意のうちに死去する。ライン宮中伯はルドルフ1世の息子であるアドルフが継ぐことを許されたものの実質的にはルートヴィヒ4世の傀儡に過ぎず、1329年に死ぬと弟のルドルフ2世が継承した。同年にパヴィアにて叔父ルートヴィヒ4世と和解して、ライン宮中伯はルドルフ1世の一族が、バイエルン公はルートヴィヒ4世の一族がそれぞれ有することで和解した。以後、ルドルフ1世の系統をプファルツ家、ルートヴィヒ4世の系統をバイエルン家と区分するようになる。 ルドルフ2世の弟であるループレヒト1世はルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書により選帝侯位を獲得したことによりライン宮中伯はプファルツ選帝侯に昇格した。アドルフの孫であるループレヒト3世は皇帝ヴェンツェルが1400年に廃位されたことを受けてローマ王になるものの世襲化には失敗している。 諸分枝の形成ループレヒト3世の息子の代でプファルツ家の分枝が形成されるようになった。すなわち、次男であるルートヴィヒ3世は選帝侯位を継承してプファルツ選帝侯家、三男であるヨハンはプファルツ=ノイマルクト家、四男であるシュテファンはプファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン家の、五男で末子であるオットー1世がプファルツ=モスバッハ家のそれぞれの祖となっている。この内、三男のヨハンはカルマル同盟の君主エーリク・ア・ポンメルンの妹カタリーナと結婚したことにより、2人の息子であるクリストファはカルマル同盟の君主に選出されるも1448年に子を残すことなく死去したことで断絶して、その遺領の大半は叔父であるオットー1世が継承するも、それも息子のオットー2世の代で断絶して遺領はルートヴィヒ3世の孫である本宗家のフィリップによって回収された。これ以降、プファルツの地は本家であるプファルツ選帝侯家が選帝侯として本領を統治し、分家のプファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン家(後にプファルツ=ジンメルン家とプファルツ=ツヴァイブリュッケン家に分離)が残りの領地を統治するところとなった。 三十年戦争ドイツで発生した宗教改革の波はプファルツにも押し寄せて、フリードリヒ2世はルター派を採用する。フリードリヒ2世の試みは皇帝カール5世によって断念を余儀なくされるが、1556年に選帝侯位についた息子のオットー・ハインリヒは再びルター派を採用する。1559年にオットー・ハインリヒが男子を残すことなく没したことでプファルツ選帝侯家は断絶し、ジンメルン家のフリードリヒ3世が継承したが、それに伴い宗派もルター派からカルヴァン派に鞍替えした。フリードリヒ3世は1563年にハイデルベルク信仰問答を出版するほどの熱心なカルヴァン派であり、その結果、プファルツ家はカルヴァン派の保護者となり、首都ハイデルベルクはカルヴァン派の牙城となった。それのみならず孫のフリードリヒ4世に至っては1608年にプロテスタント同盟を結成してその指導者になるなど、遂には帝国全体のプロテスタント全体を庇護する立場にまで上り詰めた。 そのため息子のフリードリヒ5世はボヘミアの等族(有力貴族)によって1619年に国王に推戴され、これが三十年戦争の始まりとなる。かねてよりプファルツ家がプロテスタントの盟主として帝国内で幅を利かせていたことを苦々しく思っていた、狂信的なカトリック教徒であるハプスブルク家の皇帝フェルディナンド2世はこれを機に、プファルツ家並びにプロテスタントを壊滅させることにした。これに協力したのが、同じくカトリック教徒かつカトリック同盟の盟主でもあるバイエルン家のバイエルン公マクシミリアン1世であり、1620年の白山の戦いでフリードリヒ5世率いるプロテスタント軍を撃破している。これによりフリードリヒ5世は、ボヘミア(短期間で王位を追われたため「冬王」と呼ばれた)のみならずプファルツをも喪失して亡命することを余儀なくされ、空位となったプファルツ選帝侯位並びにその領地はマクシミリアン1世に褒賞として与えられた。しかし、これは明らかに金印勅書に反するものであり、1630年にスウェーデン国王グスタフ2世アドルフの介入を招くなど、結果的には三十年戦争を長期化させる事態にまでなった。 なお、この時にフリードリヒ5世はグスタフ2世アドルフから戦線に復帰するよう求められて拒絶はしているものの、同族であるプファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラー公クリスティアン1世は騎兵大将としてグスタフ2世アドルフに加勢している。また同じく同族であるプファルツ=クレーブルク公ヨハン・カジミールはグスタフ2世の異母姉カタリーナと結婚しており、2人の息子であるカール10世アドルフは1654年にスウェーデン王位を継承し、その一族は1720年まで同国を支配することとなった(プファルツ王朝)。 1648年にヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争が終結するが、この時にマクシミリアン1世が奪った選帝侯位はそのままの状態におかれ(これをバイエルン選帝侯と呼ぶ)、フリードリヒ5世の息子であるカール1世ルートヴィヒには新たに選帝侯位とその領域を創設した形で与えられることとなった。同時に、バイエルン家が絶えた際にはプファルツ家がその選帝侯位と領域を継承する取り決めもなされている。 プファルツ継承戦争、バイエルン選帝侯位の継承1685年にカール1世ルートヴィヒの息子であるカール2世が嗣子を残すことなく没したことで、ジンメルン家は断絶、同族でツヴァイブリュッケン家の傍系に当たるプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが選帝侯位を継承するが、ノイブルク家の祖フィリップ=ルートヴィヒがカトリックに再改宗していたことから、プファルツはカトリック信仰に戻ることとなった。ただし、カール2世の妹であるエリザベート・シャルロットと結婚していたオルレアン公フィリップ1世はフィリップ・ルートヴィヒの継承に異議を唱えて1687年から1697年にかけてプファルツ継承戦争(大同盟戦争)が起きることとなった。 選帝侯位を継承したヨハン・ヴィルヘルム、カール3世フィリップのいずれもが男子を残さなかったことでノイブルク家は1742年に断絶し、サリカ法に則って選帝侯位は同族であるプファルツ=ズルツバッハ公カール4世フィリップ・テオドールが継承することとなった。もっとも、カール3世フィリップは最初の妃であるルドヴィカとの間に娘エリーザベト・アウグステを儲けており、彼女はカール・テオドールの伯父にあたるヨーゼフ・カールに嫁ぎ、2人の娘であるエリーザベトがカール・テオドールに嫁いでいるため、女系を含めれば血縁上の繋がりも近い。 カール・テオドールは1777年にバイエルン家が断絶したことを受けてバイエルン選帝侯位も継承し、結果ヴィッテルスバッハ家は統合された。しかし、カール・テオドールもまた男子を残すことなく1799年に死去したことでズルツバッハ家は断絶し、同族であるビルケンフェルト家のプファルツ=ツヴァイブリュッケン公マクシミリアン4世ヨーゼフ(既にビルケンフェルト家はクレーブルク家断絶を受けてツヴァイブリュッケン公位を継承していた)が選帝侯位を継承することとなったが、その母マリア・フランツィカはエリザベート・アウグステの妹であった。 フランス革命戦争の煽りを受けて、マクシミリアン4世ヨーゼフはプファルツを放棄することを余儀なくされるものの、1806年に初代バイエルン国王マクシミリアン1世となり、それは1918年にルートヴィヒ3世が退位するまで続いた。なお、マクシミリアン1世が選帝侯位を継承した際に同族のゲルンハウゼン家の男子にはバイエルン公 (Herzog in Bayern) の称号が授けられている。 プファルツ家の分枝プファルツ選帝侯家(ルートヴィヒ系)本来のプファルツ家とも呼ぶ家系であり、プファルツ選帝侯兼神聖ローマ皇帝ループレヒトの次男ルートヴィヒ3世に始まる。フリードリヒ2世の代にルター派に改宗、その甥オットー・ハインリヒが1559年に嗣子を残さず没したことで断絶した。 レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家→「レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家」も参照
プファルツ選帝侯フリードリヒ1世無敵公がクララ・トットとの貴賤結婚で儲けた子供に始まる。この家系は1501年に伯の地位を授けられて現在にまで存続している。 プファルツ=ノイマルクト家→「プファルツ=ノイマルクト家」も参照
神聖ローマ皇帝ループレヒトの三男ヨハンに始まる。その妃カタリーナがカルマル同盟の君主エーリク・ア・ポンメルンの妹であったことから、2人の息子であるクリストフはカルマル同盟の君主に選出されるものの嗣子を残さず没したことで断絶。カルマルの王位はオルデンブルク家に、ノイマルクトの遺領は同族で従兄弟のプファルツ=モスバッハ公オットー2世によってそれぞれ継承された。 プファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン家→「プファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン」も参照
神聖ローマ皇帝ループレヒトの四男シュテファンに始まる。シュテファンはツヴァイブリュッケン公領を遺領として獲得し、さらに婚姻関係を通じてフェルデンツとシュポンハイムをも獲得している。家系は2人の息子が遺領を分割した際に分離している。 プファルツ=ジンメルン家→「プファルツ=ジンメルン家」も参照
プファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン家のシュテファンの長男フリードリヒ1世がシュポンハイム並びにジンメルンを継承したことに始まる。ヨハン2世の代にカルヴァン派に改宗し、その息子フリードリヒ3世は本家の断絶を受けて選帝侯位も相続している。以後一族はカルヴァン派の守護者となり、さらにはプロテスタント同盟の盟主となることで帝国内の全プロテスタントの庇護者となりうる立場に上りつけた。このためフリードリヒ5世はボヘミアの等族(有力貴族)によって国王に選出されるものの、これが切っ掛けで三十年戦争が勃発して一時は選帝侯位を喪失する。その息子であるカール1世ルートヴィヒは1648年のヴェストファーレン条約で新たに創設された選帝侯位を獲得するものの息子のカール2世の代で断絶。カール2世の妹であるエリザベート・シャルロットと結婚していたオルレアン公フィリップ1世が継承権を主張して大同盟戦争が勃発する。 プファルツ=ツヴァイブリュッケン家→「プファルツ=ツヴァイブリュッケン」も参照
シュテファンの四男ルートヴィヒ1世黒公がツヴァイブリュッケンとフェルデンツを継承したことに始まる。曾孫のヴォルフガングはノイブルク公領も継承している。その息子の代で一族が分かれるがツヴァイブリュッケンは次男のヨハン1世が継承、孫のフリードリヒが1661年に嗣子残さずして没したことで直系は断絶した。 プファルツ=ノイブルク家→「プファルツ=ノイブルク公」も参照
ヴォルフガングの長男フィリップ・ルートヴィヒがノイブルク公領を継承したことに始まる。フィリップ・ルートヴィヒはカトリックに再改宗し、その孫フィリップ・ヴィルヘルムはジンメルン家から選帝侯位を継承している。その息子カール3世フィリップには男子がなくて1742年に断絶するが、ポーランド・リトアニア共和国の有力貴族(シュラフタ)令嬢ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウとの間にもうけた娘エリーザベト・アウグステは同族であるヨーゼフ・カール・フォン・プファルツ=ズルツバッハに嫁いでおり、2人の娘であるエリーザベト・アウグステは従弟で選帝侯を継承したカール4世フィリップ・テオドールに嫁いでいる。 プファルツ=ズルツバッハ家→「プファルツ=ズルツバッハ」も参照
フィリップ・ルートヴィヒの次男アウグストがズルツバッハ公領を相続したことに始まる。玄孫のカール4世フィリップ・テオドールはノイブルク家から選帝侯位を継承し、1777年にはバイエルン家の断絶を受けてバイエルン選帝侯位も継承する。庶子には恵まれたものの、嫡子を儲けることが出来なかったので1799年に断絶、選帝侯位は父方の従姉妹であり妃エリーザベト・アウグステの妹でもあるマリア・フランツィカの息子、マクシミリアン4世ヨーゼフが継承した。 プファルツ=ランツベルク家→「プファルツ=ランツベルク」も参照
プファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハン1世の末子フリードリヒ・カジミールの代にはじまる。息子のフリードリヒ・ルートヴィヒは1661年にプファルツ=ツヴァイブリュッケンも継承するが、自らも後継者のないまま1681年に死去、プファルツ=ランツベルク家は断絶した。 プファルツ=クレーブルク家→「プファルツ=クレーブルク」および「プファルツ王朝」も参照
ヨハン1世の三男ヨハン・カジミールがクレーブルク公領を継承したことに始まる。ヨハン・カジミールはスウェーデン国王カール9世の娘でグスタフ2世アドルフの異母姉であるカタリーナと結婚したことで、2人の長男であるカール10世アドルフは1654年にスウェーデン王位を継承してプファルツ王朝を創始し、その息子であるカール11世はツヴァイブリュッケン公位をも継承し、その娘ウルリカ・エレオノーラが1720年に退位するまで王朝は続いた。 他方、クレーブルク公位はヨハン・カジーミルの次男アドルフ・ヨハン1世が相続してその息子であるグスタフ・ザムエル・レオポルトは1718年に従兄弟のスウェーデン国王カール12世が戦死したことでツヴァイブリュッケン公位も継承するも嗣子を残すことなく1731年に死去したことで断絶した。 プファルツ=ビルケンフェルト家→「プファルツ=ビルケンフェルト家」および「バイエルン国王」も参照
ヴォルフガングの五男カール1世がビルケンフェルトを継承したことに始まる。当初は一族の間ではあまり目立たない存在であったが、曾孫のクリスティアン3世がクレーブルク家からツヴァイブリュッケン公位を継承したことから発展するようになり、孫のマクシミリアン4世ヨーゼフはズルツバッハ家断絶を受けてプファルツ=バイエルン両選帝侯位を継承し、1806年には初代バイエルン国王マクシミリアン1世として即位している。以後、1918年にルートヴィヒ3世が退位するまでマクシミリアン1世の子孫がバイエルンを統治しており、家系は現在まで続いている。なお、ルートヴィヒ1世の次男オソン1世は1833年にギリシャ国王に選出されている。 プファルツ=ゲルンハウゼン家プファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラー公クリスティアン1世の四男ヨハン・カールがゲルンハウゼン公領を継承したことに始まる。孫のヴィルヘルムがマクシミリアン4世ヨーゼフのバイエルン選帝侯選出の功績により「バイエルン公 (Herzog in Bayern)」の地位を授けられ、一族は公爵家として発展した。 プファルツ=フェルデンツ家→「プファルツ=フェルデンツ」も参照
1543年に創設。1694年にレオポルト・ルートヴィヒが死去したことで断絶、領地はプファルツ=クレーブルク家が相続した。 プファルツ=モスバッハ家→「プファルツ=モスバッハ」および「プファルツ=モスバッハ=ノイマルクト」も参照
神聖ローマ皇帝ループレヒトの五男オットー1世がモスバッハ公領を継承したことに始まる。オットー1世の息子オットー2世はノイマルクト家断絶を受けてその遺領も継承してプファルツ=モスバッハ=ノイマルクトを形成したが、嗣子残さずして1499年に死去したことで断絶。遺領は選帝侯家のフィリップによって回収された。 系図系図1
系図2
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