メル・ダニエルズ
メルヴィン・ジョー・ダニエルズ(Melvin Joe Daniels, 1944年7月20日 - 2015年10月30日)は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手である。身長206cm、体重100kg。ポジションはセンター。キャリアの大半をABAのインディアナ・ペイサーズで過ごした。ペイサーズを3度のリーグ制覇に導き、MVPを2度受賞するなど、ABAを代表するスーパースターであった。2012年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。 経歴生い立ちと学生時代ミシガン州デトロイトで生れたダニエルズは、地元のパーシング高校に進学し、そこで体育教師のウィル・ロビンソンに見出されてバスケットボールチームに加わった。当初はやや不器用なこともあってプレータイムは多くなかったが、誰よりもハードワークをこなして練習を続けるうちに才能が開花し、最終学年時にはチームのエースに成長した。高校卒業後、ダニエルズはロビンソンの口添えで奨学金を得てアイオワ州バーリントンのバーリントン・コミュニティ・カレッジに進学し、そこでのプレーが評価されてニューメキシコ大学のヘッドコーチにリクルートされ、2年次から編入学した。 ダニエルズはニューメキシコ大学で目覚ましい活躍を見せ、4年次には平均21.5得点11.6リバウンドをあげてオールアメリカ2ndチームに選ばれた。3年間の成績は平均20.0得点11.1リバウンドであり、ダブルダブル44回は学校記録となった。ダニエルズに率いられたチームは1966-67シーズンに学校新記録となる17連勝をあげ、全米ランキングで最高3位にランクされている。 プロキャリア大学卒業後、ダニエルズはNBAドラフトでシンシナティ・ロイヤルズから全体9位指名を受けたが入団を拒否し、当時創設されたばかりだったABAのミネソタ・マスキーズに入団した。ABAを選んだ最大の理由は契約金が大きいことであった。ダニエルズはNBAドラフト1巡目指名選手がABAでのプレーを選択する先駆け的存在となった。 ダニエルズはプロ1年目から平均22.2得点15.6リバウンドをあげてリバウンド王を獲得し、新人王とオールABA1stチームに選ばれた。シーズン終了後、早くも財政難に陥っていたマスキーズは、現金と引換えにダニエルズら3人の選手をインディアナ・ペイサーズにトレードした。 ペイサーズでの1年目となる1968-69シーズン、ダニエルズは平均24.0得点16.5リバウンドを記録して2年連続でリバウンド王に輝き、MVPも受賞した。シーズン序盤にヘッドコーチに就任したスリック・レナードに率いられ、チームは初めてファイナルに進出したがオークランド・オークスに敗れた。 1969-70シーズン、ダニエルズは平均18.7得点17.6リバウンドをあげ、3年連続でオールABA1stチームに選ばれた。シーズン中のニューヨーク・ネッツ戦ではキャリアハイとなる56得点をあげている。ダニエルズやロジャー・ブラウン、フレディ・ルイスらを擁したペイサーズはリーグトップとなる59勝をあげ、ファイナルでロサンゼルス・スターズを破って初優勝を果たした。 1970-71シーズンにダニエルズは絶頂期を迎え、平均21.0得点18.0リバウンドで自身3度目のリバウンド王に輝くとともに、2度目のMVP受賞を果たした。またオールスターゲームでは29得点をあげてMVPを獲得している。2年連続でリーグ首位の成績を修めたペイサーズはプレーオフのディビジョン決勝で敗退したが、ダニエルズはプレーオフ期間中平均21.4得点19.2リバウンドを叩き出した。 このシーズンを境にダニエルズの個人成績は徐々に低下していくが、一方でペイサーズは最盛期を迎えることとなる。1971-72シーズン、ダニエルズは初めてオールABAチーム選出を逃したものの、平均19.2得点16.4リバウンドの好成績を残した。チームはファイナルでリック・バリー率いるニューヨーク・ネッツを破って2度目のリーグ制覇を果たし、ABAで複数回優勝した初の球団となった。翌1972-73シーズンも、プロ2年目のジョージ・マクギニスやダニエルズらの活躍でプレーオフを勝ち上がり、ファイナルではアーティス・ギルモア、ダン・イッセルら豪華戦力を擁したケンタッキー・カーネルズを退けてABA史上唯一となる2連覇を達成した。ダニエルズにとってはキャリア6年で3度目の優勝であった。 1973-74シーズン、ダニエルズはエースの座をマクギニスに譲ったが、平均15.4得点11.6リバウンドの成績で7年連続となるオールスター選出を果たした。チームはプレーオフのディビジョン決勝で敗退している。シーズン終了後、ダニエルズはメンフィス・サウンズにトレードされた。ペイサーズでの成績は479試合で平均19.4得点16.0リバウンドだった。通算7,643リバウンドは今なおペイサーズの球団記録である。 サウンズで迎えた1974-75シーズン、ダニエルズは胃痙攣と背中の痛みに苦しみ、キャリア最低となる平均9.8得点9.0リバウンドに終った。サウンズはこのシーズン限りで解散し、所属していた選手たちはエクスパンション・ドラフトで他球団に移籍することとなった。しかしダニエルズはABAから引退することを決意し、1975-76シーズンをイタリアのプロリーグでプレーした。1976年にABAとNBAが合併すると、フリーエージェントだったダニエルズはニューヨーク・ネッツと契約し、NBAで11試合に出場した後完全に現役を引退した。 ABA及びNBAでの成績は639試合に出場して通算11,778得点9,528リバウンド(平均18.4得点14.9リバウンド)だった。ABA通算9,494リバウンドは史上1位の記録である。 引退後ダニエルズは現役を退いた後、インディアナ州立大学でアシスタントコーチの職を得た。当時インディアナ州立大学にはラリー・バードが在籍しており、1979年にシーズン全勝とNCAAトーナメント準優勝を果たしている。その後1984年から古巣インディアナ・ペイサーズのアシスタントコーチを7シーズン務めた。1988-89シーズン途中には臨時でヘッドコーチに就任し、2試合指揮を執った。コーチ退任後はスカウトを経てペイサーズのフロントに入り、2009年まで選手人事部長を務めた。 1985年に背番号『34』がペイサーズの永久欠番に指定され、2012年にバスケットボール殿堂入りを果たした。 晩年はインディアナ州シェリダンで牧場を経営し、馬を育てながら趣味の詩作に取り組んでいた。2015年、心臓手術後の合併症により71歳で死去。 個人成績
ABA/NBAレギュラーシーズン
ABAプレーオフ
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