ライセンス生産
ライセンス生産(ライセンスせいさん)とは、他の企業が開発した製品の設計・製造技術を、別の企業が許可料(ライセンス料、ロイヤリティ)を支払ってそのまま使用し、その製品を生産する事である。医薬品や航空機、自動車、銃器、ファッション業界などでよく行われる[1]。兵器などのライセンス国産の業界では『ラ国』という略語が使われることがある[2]。 概要企業がライセンス生産を行なうメリットとしては、主に以下の点が挙げられる[3]。
ファッションブランドなどのライセンス生産1980年代まで、小売業への海外直接投資は完全には自由化されていなかった。また日本の流通システムは複雑で、卸業者や代理店が何段階にも分かれているため、外資系企業が単独で小売店を開設するにはほぼ不可能で、国内のパートナーに協力を仰がざるをえなかった[4]。それでも、1960年代には、ロレアル(1963年)、エスティローダー(1967年)など欧米の化粧品企業が日本に子会社を設立した。その後も、ティファニー(1972年)、ブシュロン(1973年)、ロンジン(1974年)、ルイ・ヴィトン(1978年)、シャネル(1980年)、エルメス(1983年)等の時計・宝飾・ファッション・皮革メーカーが続々と日本に進出した[4]。これらの企業は、自社製品の輸入と日本の流通業者への販売を専門的に担い、マーケティング活動も統括した[4]。ただこうした企業は例外的で、他の高級ブランドはほとんどが小規模な家族経営であり、日本に子会社を設立する手段を有していなかった[4]。そこで彼らは、日本での製品製造のために現地のパートナーとライセンス契約を結ぶか、商社と輸入契約を結ぶかという、2つの戦略の、いずれかを選ぶことを迫られた[5]。 フランスのオートクチュール企業は、ライセンス生産を多用し、クリスチャン・ディオールがその先駆者となった[6]。同社は1953年に大丸と契約[6]。ドレスのライセンス生産を開始する[6]。その後、ピエール・カルダンと髙島屋(1959年)あるいは伊勢丹(1963年)、ニナ・リッチと松坂屋(1961年)、ギ・ラロッシュと三越(1963年)など、多くの百貨店がこの方式を採用した[6]。これらの取引関係は、婦人服の生産から始まり、次第に多種多様なアクセサリーへと拡大していった[6]。 ヨーロッパのファッション企業とこうした契約を締結したのは、百貨店だけではなく、たとえばクリスチャン・ディオールは、1963年に鐘紡と新たにライセンス契約を結んでいる[6]。ほかにもバーバリーは三陽商会と(1969年)、イヴ・サンローランは川辺と(1970年)、クレージュはイトキンと(1980年)など、さまざまな繊維メーカーや衣料品メーカーと契約が結ばれた[6]。また、ゴールドウインは欧米の各アウトドアブランドをライセンス契約のかたちで生産し、アメリカのアウトドアブランドであるOUTDOOR PRODUCTSは伊藤忠商事がアジアでの商標権を取得している[7]。 1990年代の自由化に伴い、資金力を持ったコングロマリットに買収されたヨーロッパの高級ブランドは、日本市場でのプレゼンスを直接的に高められるようになり[8]、90年以降、欧米高級ブランドの大半が日本に子会社を設立した[9]。日本に直接拠点を置くことで、小売ネットワークの拡大をより効果的にコントロールすることが可能となり、これらの子会社は、百貨店外におけるモノ・ブランド・ストアの開店を統括し、ライセンス契約を終了させていった[9]。クリスチャン・ディオールは、その好例である。同社は日本市場における歴史は長いが、ライセンスの乱発によって過剰に商品展開が行われ、イメージがぼやけてしまった[9]。1984年にベルナール・アルノーが同社を買収し、1987年にLVMHが設立されると、特定市場向けのライセンス契約を廃止し、モノ・ブランド・ストアのグローバルなネットワークを構築するという、新たな戦略が打ち出された[9]。日本でも、1997年に鐘紡とのライセンス契約が終了しているが、それより前の1992年に日本法人を設立している[9]。バーバリーも同様な経緯をたどった[9]。2000年に、イギリス本社は三陽商会とのライセンス契約をめぐって再交渉を行い、製品デザインに対するコントロールを強化した[10]。さらに2014年には、ついにライセンス契約を終了し、日本に販売子会社を設立して、東京・表参道に旗艦店をオープンした[10][11]。 過去には、アディダスはデサント、アニエス・ベーはサザビーとライセンス契約していたが、その後契約は終了している[12]。 自動車・航空機・兵器などのライセンス生産外国企業からライセンスを受ける場合、国家レベルであれば、次のようなメリットもあるといわれている。
これらのメリットは薬品や兵器等、国家レベルで必要になってくる必需品等では特に重要になってくるとされ、日本の自衛隊の装備のうち、国産でない装備の多くがアメリカ合衆国等から完成品を輸入するのではなく、高いライセンス料を支払いライセンス生産する傾向にあるのは、これらのメリットが望めるためだとされている。 なお、この他、他企業で生産された製品の主要部品を輸入して、現地で組立を行うノックダウン生産方式も存在する。しかし、こちらの方式では生産側は組立技術や簡単な整備ノウハウを得るのみに留まる。 デメリット一方で、デメリットも数多くあると言われており、兵器等のライセンス生産において影響が顕著にみられる。
技術獲得による衝突日本は1950年代から1960年代の高度経済成長期時代から、アメリカから提供された兵器や後にライセンス生産で得た兵器の最新技術を積極的に民間の製品に転用した。これを主にスピンオフといい、軍需産業の確立しているアメリカでは禁止されている行為であるが、日本では逆に推奨されている。これにより、1980年代に日本製品のアメリカへの輸出攻勢が激しくなると、軍事技術を民間の製品に転用した製品が輸出されている事が分かり、強いジャパン・バッシング(日本叩き)を受けたことは有名である。 民間への技術転用がどうしても遅れてしまうアメリカ側からすれば、最新技術を直ぐに転用した日本製品の質が高いのは当たり前とする考え(日本製品が好まれるのはそれだけの理由ではないが)が生まれるのは当然であった。F-2戦闘機の自国開発にアメリカが横槍を入れたのは、この問題があったために日本が旅客機などへのスピンオフを警戒したためとの意見もある[15]。 分かりやすい例を挙げるなら、アメリカで開発された形状記憶合金である。アメリカでは戦闘機のエンジン部分のパーツとして使われるのみであったが、日本では衣服(例えば女性下着ブラジャーのワイヤーや、背広などの肩パッド)の一部として使われ始め、広く普及した。チタン合金も、戦闘機の胴体で使用したものを日本人は台所や鍋などの調理器具に使い、戦闘機のブレーキは新幹線や自動車のブレーキへと姿を変えた。こういった例は数え切れないほどある。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |