ライ・クーダー
ライ・クーダー(Ry Cooder、本名:Ryland Peter Cooder、1947年3月15日 - )は、アメリカ合衆国出身のミュージシャン、ギタリスト、歌手、作曲家である。 概要世界各国のルーツミュージックに対する造詣も深く、アメリカのルーツ・ミュージックを発掘し、多くの音楽ファンへ広く紹介した。また、ヴィム・ヴェンダース、ウォルター・ヒル監督作品の音楽にも携わった[1]。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において、8位にランクイン[2]、2011年の改訂版では第31位。 来歴カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。父親の影響で、3歳の頃に初めて4弦ギターを手にする[3]。4歳のとき、ナイフによる事故が原因で片目を失明、以後義眼となる[4]。 16歳にして、音楽活動を始める[4][3]。1960年代半ばには、タジ・マハールらと組んだライジング・サンズ、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド[5]、ジャッキー・デシャノンのバンドなどで活動。 ローリング・ストーンズのアルバム『レット・イット・ブリード』(1969年)に参加して、同作のレコーディング中に行われたジャム・セッションは『ジャミング・ウィズ・エドワード』(1972年)として発表された。 1970年にアルバム『ライ・クーダー・ファースト』でソロ・デビューを果たす。1970年代の彼のアルバムは、あまり売れず、ウォルター・ヒル監督の映画音楽で、映画ファンに名前を知られた程度だった。しかし、アルバムにはテックス・メックスやハワイアン、ディープ・ソウルなど、さまざまな音楽が収録された。 1978年春、初来日公演が虎ノ門・久保講堂ほかで実施された。1979年秋、デヴィッド・リンドレーと組み再来日公演を行う[3]。リンドレーとは1984年の映画『パリ、テキサス』のサウンドトラックでも共演[6]。以後も1990年、1995年と再度来日公演を行うなど、度々共演を重ねている。なお、『ジャズ』というタイトルのアルバムは、ジャズ・アルバムではない。 1980年代以降は映画音楽を多く手掛けるようになり、自己名義のスタジオ・アルバム製作からは1987年の『ゲット・リズム』を最後にしばらく遠ざかることとなった。同作収録の"Goin' Back To Okinawa"では沖縄民謡風の音階やフレーズにも挑戦、喜納昌吉&チャンプルーズのアルバム『BLOOD LINE』にも参加している。 1991年、ジョン・ハイアット、ジム・ケルトナー、ニック・ロウとリトル・ヴィレッジを結成。翌年同名のアルバムをリリースし、ツアーも行った。 1993年、インドのミュージシャンV・M・バットとの共演作『ア・ミーティング・バイ・ザ・リヴァー』を発表し、同アルバムで第36回グラミー賞の最優秀ワールド・ミュージック・アルバム賞を受賞した[7]。翌1994年にはマリのブルースマンと称されるアリ・ファルカ・トゥーレとの共演作『トーキング・ティンバクトゥー』を発表し、第37回グラミー賞の最優秀ワールド・ミュージック・アルバム賞を受賞した[7]。 1996年、キューバに赴き、エリアデス・オチョア、コンパイ・セグンドといった現地のミュージシャンたちとアルバム『Buena Vista Social Club』をレコーディングする。同作は、1997年の第40回グラミー賞において最優秀トロピカル・ラテン・パフォーマンス賞を受賞するなど[7]、欧米を中心に高い評価を受けた。1999年には、ヴィム・ヴェンダース監督による同名の映画が封切られ、世界的に話題となった。 2003年、キューバ人ギタリストのマヌエル・ガルバンと連名のアルバム『マンボ・シヌエンド』を発表し、同作は第46回グラミー賞で最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバム賞を受章した[7]。2005年、ロサンゼルスのメキシコ系アメリカ人コミュニティーを題材としたコンセプト・アルバム『チャヴェス・ラヴィーン』を発表し、続く2007年の『マイ・ネーム・イズ・バディ』、2008年の『アイ・フラットヘッド』も同様にストーリー性を持ったアルバムで、これら3作は「カリフォルニア三部作」と呼ばれている[8]。 2009年、リトル・ヴィレッジ以来17年ぶりにニック・ロウと組みツアーを行い、同年11月には日本公演も行った[9]。 スライド・ギターの名手として知られており、多くのギタリストが彼の名を挙げている。フィンガー・ピッキングにも定評があり、指の爪で澄んだ音色を出している。特に両方を織り交ぜたフレーズは、オリジナリティが溢れているとされている。 ディスコグラフィスタジオ・アルバム
ライヴ・アルバム
コンピレーション
映画サウンドトラック
その他プロジェクト
CM関連項目脚注
外部リンク |