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ラオール・ウォルシュ

ラオール・ウォルシュ
Raoul Walsh
ラオール・ウォルシュ Raoul Walsh
1922年撮影
本名 Albert Edward Walsh
生年月日 (1887-03-11) 1887年3月11日
没年月日 (1980-12-31) 1980年12月31日(93歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ベンチュラ郡シミバレー
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 映画監督俳優映画プロデューサー脚本家
活動期間 1909年 - 1964年
配偶者 ミリアム・クーパー(1916 - 1926)
Lorraine Miller (1928 - 1947)
著名な家族 ジョージ・ウォルシュ英語版
主な作品
バグダッドの盗賊
彼奴は顔役だ!
ハイ・シェラ
いちごブロンド
大雷雨
鉄腕ジム
追跡
死の谷
白熱
艦長ホレーショ
南部の反逆者
裸者と死者
受賞
AFI賞
10ジャンルのトップ10
(第4位(ギャング映画))
白熱
(第9位 (ファンタジー映画))
バグダッドの盗賊
その他の賞
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ラオール・ウォルシュRaoul Walsh1887年3月11日 - 1980年12月31日)は、アメリカ合衆国映画監督俳優映画プロデューサーギャング映画フィルム・ノワールといった「犯罪映画の巨匠」として知られる。また、西部劇戦争映画冒険映画などのアクション映画でも多数傑作を残した。その他にもコメディ映画ロマンス映画スポーツ映画など多彩なジャンルを手掛ける職人監督で、1964年に引退するまで手掛けた作品は100本以上に上る。

人物

1887年3月11日ニューヨーク州ニューヨーク市に産まれる。本名はアルバート・エドワード・ウォルシュAlbert Edward Walsh)。父親はイングランド系で、母親はアイルランド系。弟のジョージ・ウォルシュは俳優で、ウォルシュの作品に数多く出演していた。

シートン・ホール大学を卒業し、1909年に、ニューヨークで舞台俳優としてデビュー。1913年に、ラオール・ウォルシュまたは、R・A・ウォルシュと名乗るようになる。同時に短編映画の監督をいくつかこなすようになる。1914年D・W・グリフィスのアシスタントとなり、『国民の創生』にも出演している。1915年にグリフィスから独立した後、フォックス・フィルムに入社。長編デビュー作にしてアメリカ映画初の長編ギャング映画復活 (1915年の映画)英語版』を皮切りに、15本もの映画を制作。1916年に女優のミリアム・クーパーと結婚し、彼女の主演作を数多く手掛けるも1926年に離婚してしまう。

1924年、ダグラス・フェアバンクス上山草人が出演したサイレント映画バグダッドの盗賊』を手掛け、一躍知名度が上がる。その後は、ヴィクター・マクラグレンドロレス・デル・リオが出演した戦争映画栄光 (1926年の映画)英語版』(1926年)や、グロリア・スワンソン主演で、ウォルシュ自身も役者として出演した『港の女』(1928年)などを次々と手掛ける。

1928年自身の監督兼主演で『懐しのアリゾナ』の製作に着手、ウォルシュにとって事実上初のトーキー作品であったが、撮影中に交通事故に遭い、右目を失明してしまう。これが原因でウォルシュは途中降板し、監督はアーヴィング・カミングスに、主演はワーナー・バクスターに引き継がれた。

1930年にフォックスから70mmフィルムによる西部劇大作『ビッグ・トレイル』の監督を依頼される。当初はゲイリー・クーパーを主演に考えていたものの、クーパーと契約していたパラマウント映画からの許可が得られずに失敗。しかし、同じくフォックスに所属していたジョン・フォードから無名の俳優マリオン・ロバート・モリソンを紹介され、主演に抜擢する。ウォルシュはその俳優にアメリカ独立戦争の英雄アンソニー・ウェインに因みジョン・ウェインと名付けた。ウェインとは、『暗黒の命令』(1940年)で再びタッグを組んでいる。

『ビッグ・トレイル』は当時の金額で200万ドルもの費用が注ぎ込まれたものの、興行的に失敗。ウェインはジョン・フォード監督の『駅馬車』(1939年)までB級映画専門の俳優として不遇の時代を過ごすことになる。

1933年ジョセフ・M・シェンクダリル・F・ザナックが設立した20世紀ピクチャーズの第1回作品『バワリイ英語版』の監督を担当し、劇中でジョージ・ラフトブルックリン橋から飛び降りるアクションシーンを手掛け話題を呼んだ。ラフトとは『夜までドライブ英語版』(1940年)、『大雷雨』(1941年)でもタッグを組んだ。

その後、1935年パラマウント映画に在籍し、『アメリカの恐怖英語版』(1936年)や『画家とモデル (1937年の映画)英語版』(1937年)など多彩なジャンルを手掛けた後、1939年ワーナー・ブラザースに移籍し、禁酒法時代を題材に、ギャングとなった男達の栄枯盛衰を描いた犯罪映画彼奴は顔役だ!』を手掛ける。

1941年には、ウォルシュとは30年代初めから交流があり、且つこれまで脇役が殆どだったハンフリー・ボガートを大作映画で初めて主演に抜擢した『ハイ・シェラ』を手がけ、ボガートがハードボイルドスターとなる礎を築く。ボガートとは後に『北大西洋』(1943年)や『脅迫者 (1951年の映画)英語版』(1951年)で途中参加ながらタッグを組んでいる。

同じ年に、ジョージ・アームストロング・カスターの半生を描いた『壮烈第七騎兵隊』を手掛け、カスター役に剣戟映画で名を馳せたエロール・フリンを抜擢し、大ヒットさせる。ウォルシュとはプロボクサーであるジェームス・J・コーベットの半生を描いた『鉄腕ジム』(1942年)でもタッグを組み、ウォルシュが途中で参加した作品も含めて計9作品に出演した。

1949年には『彼奴は顔役だ!』などでタッグを組んできたジェームズ・キャグニーを主演にフィルム・ノワールの傑作である『白熱』を手掛ける。この作品でウォルシュはキャグニーから迫真の演技を引き出し、批評家から絶賛を浴びるも、本作の凄まじい暴力描写は議論の的になった。

1951年には、セシル・スコット・フォレスター原作の海洋冒険小説「ホーンブロワーシリーズ」を題材にしたテクニカラー超大作『艦長ホレーショ』をグレゴリー・ペック主演で手掛け大ヒットさせる。これがきっかけとなり、ウォルシュは1952年から53年にかけて一連の海洋冒険ものを手掛けるようになる。代表的なものに『艦長ホレーショ』でもタッグを組んだペック主演の『世界を彼の腕に』(1952年)、ロバート・ニュートン主演の『海賊黒ひげ英語版』(1952年)、ロック・ハドソン主演の『海賊船シー・デビル号の冒険英語版』(1953年)がある。

1964年公開の『遠い喇叭』を最後に監督としての引退を発表した後、1980年12月31日に心臓麻痺で死去。享年93歳。[1]

主な監督作品

関連項目

出典

  1. ^ Peter B. Flint (January 3, 1981). “Raoul Walsh, 93, Dead; Early Director of Movies”. The New York Times: p. 26 
  2. ^ “ISS 2017 Annual Meeting New York, New York”. Skeletal Radiology 46 (9): 1305-1314. (2017-06-28). doi:10.1007/s00256-017-2691-9. ISSN 0364-2348. https://doi.org/10.1007/s00256-017-2691-9. 

外部リンク

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