ランディ・サベージ
"マッチョマン" ランディ・サベージ("Macho Man" Randy Savage、本名:Randall Mario Poffo、1952年11月15日 - 2011年5月20日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。オハイオ州コロンバス出身のイタリア系アメリカ人。キャリア全盛時は、当時の居住地であるフロリダ州サラソータ出身と紹介されていた。 デトロイト、レキシントン、メンフィスなどのローカル・テリトリーを経て、WWFやWCWで活躍した。父のアンジェロ・ポッフォ、弟の "ザ・ジニアス" ラニー・ポッフォもプロレスラーである。 来歴野球選手時代イリノイ州シカゴ郊外のダウナーズグローブ北高等学校在学時は野球選手(捕手)として活躍し、1971年のMLBドラフト会議での指名を目指していたが、指名されることはなかった[1]。その後、セントルイス・カージナルスが開催した公開トライアウトに参加し、300名の参加者の中でただ1人合格[1]。月給500ドルの契約を結び、晴れてプロ野球選手となった[1]。 カージナルス傘下では捕手の他に外野手にも挑戦したが、肩の故障もありA級までしか昇格できず、1973年限りで自由契約となった。 1974年はシンシナティ・レッズと契約し、傘下A級タンパ・ターポンズに所属。131試合に出場して打率.232、9本塁打、66打点の成績を残したが[1]、ここでも昇格はなく、この年限りで現役を引退した。マイナーリーグ4年間の通算成績は、289試合出場、打率.254、16本塁打、129打点[2]。 プロレスラー初期1973年11月、野球のオフシーズンにプロレスラーとしてデビューを果たす。野球を引退した後はプロレスに専念する。 覆面レスラーのザ・スパイダーや本名のランディ・ポッフォの名義でジョージアやフロリダ、ミッドアトランティックなどNWAの傘下テリトリーを転戦してキャリアを積む[3]。海外修行時代の日本の若手レスラーとも試合を行っており、フロリダでは1975年にミツオ・ヨシダこと長州力[4]、ミッドアトランティックでは1976年にドクター・フジナミこと藤波辰巳と対戦[5]。父アンジェロ・ポッフォも主戦場としていたデトロイト地区ではザ・シークのUSヘビー級王座に挑戦した。 1977年下期よりランディ・サベージのリングネームを用い[3]、1978年からはアンジェロが設立したケンタッキー州レキシントンの独立団体ICW(International Championship Wrestling)に弟のラニー・ポッフォと共に参画[6]。ボブ・ループ、ボブ・オートン・ジュニア、ロニー・ガービン、クラッシャー・ブルームフィールドらとタイトルを争った。 しかし、経営の悪化によりICWは解散。1983年からは同じくケンタッキーをサーキット・エリアとしていた、ジェリー・ジャレット(後のTNA創設者)が主宰するテネシー州メンフィスのCWA(後のUSWA)に転出した。CWAではジェリー・ローラーとAWA南部ヘビー級王座を巡って対戦を繰り広げ、オースチン・アイドルともインターナショナル・ヘビー級王座を賭けた抗争を展開[7]。タッグ戦線でもラニーと組んでリッキー・モートンとロバート・ギブソンのロックンロール・エクスプレスとの抗争で活躍した。 1984年12月30日には、後にマネージャーとなるミス・エリザベスことエリザベス・ヒューレットと結婚した。 WWF時代1985年6月8日、ジェリー・ローラーとの敗者追放マッチに敗れてCWAを去り、妻のエリザベスをマネージャーにWWFに登場。若手時代にデトロイトで邂逅したパンピロ・フィルポを模した[8] "Oooh Yeah!!" を決め台詞にヒールの主力として頭角を現し、翌1986年2月8日にはティト・サンタナからインターコンチネンタル・ヘビー級王座(以下IC王座)を奪取した。 1987年3月29日にミシガン州で開催されたレッスルマニアIIIでは、リッキー・スティムボートと歴史に残るIC王座戦を展開。この試合でIC王座から転落するとベビーフェイスに転向して、エリザベスとの二人三脚で人気をさらに高める。 1988年3月27日にニュージャージー州アトランティックシティで開催されたレッスルマニアIVのWWF世界王者決定トーナメントでは、俳優活動も始めたハルク・ホーガンを抑えメインイベントに抜擢された。ホーガンとエリザベスのサポートもあり、決勝でテッド・デビアスを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得、名実共にWWFのトップスターまで登りつめた。 1988年にハルク・ホーガンとのタッグチーム「メガ・パワーズ(The Mega Powers)」を結成。8月29日のサマースラム第1回大会のメインイベントではアンドレ・ザ・ジャイアント&デビアスの「メガ・バックス(The Mega Bucks)」と対戦した。しかしながら、エリザベスを巡る三角関係のアングルでコンビは解散し、ホーガンとの抗争に発展していく。 1989年4月2日のレッスルマニアVでホーガンに敗れ、WWE世界王座とエリザベスを同時に失う。その後はエリザベスに代わる新しい女性マネージャーとしてセンセーショナル・シェリーを帯同し、再びヒールに戻ってホーガンとの抗争を継続させる。キングを名乗っていたジム・ドゥガンを破ったことでリングネームもマッチョマンから「マッチョ・キング」に変更し、1990年代からはダスティ・ローデスやアルティメット・ウォリアーとの抗争に入った。 1991年3月24日のレッスルマニアVIIでは、ウォリアーとの敗者引退マッチにて30分以上の死闘を繰り広げるも敗退。試合後、敗北をマネージャーのシェリーに責められ攻撃される。そのとき客席からエリザベスが救出に駆けつけ、2人は復縁することになる。その後は再びベビーフェイスとなり、リングネームをマッチョマンに戻すと、同年8月26日にマディソン・スクエア・ガーデンで行われたサマースラム1991にてエリザベスと結婚式を挙げた(実際には2人は1984年に結婚しているが、ストーリー上では恋人同士の関係ということになっていた)。 以降は2人への祝儀にヘビを送りつけたジェイク・ロバーツとの抗争を経て、1992年4月5日にインディアナポリスで開催されたレッスルマニアVIIIではリック・フレアーを破り再びWWF世界ヘビー級王座を奪取、9月1日にフレアーに奪回されるまで約半年間保持した。しかし、私生活において同年9月18日にエリザベスと離婚すると、彼女はテレビから姿を消し、サベージも1993年からはカラー・コメンテーターが主体となり試合数は減少する。1994年にホーガンがWCWに移籍すると、同年10月に後を追うようにWCWに転出した。 WCW時代1994年に契約金600万ドル(約7億5千万円)でWCWに移籍すると、1995年11月26日と1996年1月22日にそれぞれフレアーを破りWCW世界ヘビー級王座を獲得[9]。フレアーとホーガンに次ぐWWEとWCWの両メジャーにて世界王者になったレスラーの1人となった。 1996年にホーガンがケビン・ナッシュ、スコット・ホールと共にnWoを結成すると、後にサベージもメンバーとなり、nWo内でエリザベスと復縁(実生活上の復縁ではない)、ダイヤモンド・ダラス・ペイジと抗争を繰り広げた。 1998年4月19日には当時のWCWのトップスター、スティングからWCW世界ヘビー級王座を奪取するが、翌日にホーガンに敗れ1日で王座から転落した。nWoとホーガンに不満を持ったサベージは、ナッシュが新しく結成したnWoウルフパックに加わるが、怪我のためほとんど試合に出場することはなくテレビから姿を消した。 1999年にニュールックで復帰すると、新しいガールフレンドのゴージャス・ジョージをマネージャーに迎え、メデューサ、ミス・マッドネス、シッド・ビシャスらと「チーム・マッドネス(Team Madness)」なるユニットを結成[10]。7月11日にナッシュを破って4度目のWCW世界ヘビー級王座戴冠を果たし[9]、8月にはNBAの問題児デニス・ロッドマンとのシングルマッチを制すなど、健在ぶりをアピールした。2000年に入るとホーガンやフレアーなど他の大御所レスラー達と共に「ミリオネアーズ・クラブ(The Millionaire's Club)」のメンバーとなるも、nWoほどのブレイクには至らず、契約の満了に伴いWCWを離脱した。 WCW以降しばらくフェードアウトした後の2004年12月5日、TNAのターニングポイントに登場。ジェフ・ハーディー&A・J・スタイルズとトリオを結成し、ザ・キングス・オブ・レスリング(ナッシュ、ホール、ジェフ・ジャレット)と対戦したが、交渉の決裂によりサベージのTNA出場はこの1試合のみにとどまった。 2009年6月にはDVD『Macho Madness:The Randy Savage Ultimate Collection』がWWEからリリースされている。 死去2011年5月20日朝、フロリダ州のハイウェイで自動車を運転中、心臓発作を起こしてコントロールを失い木に衝突、ラルゴ・メディカル・センターに運ばれたものの容体が悪化し死亡が確認された[11][12][13]。58歳没。没後の2015年、WWE殿堂に迎えられた(インダクターはホーガン)。 日本でのファイト
得意技
獲得タイトル
エピソード
脚注
外部リンク
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