リットン調査団リットン調査団(リットンちょうさだん、Lytton Commission)は、国際連盟に設置された調査委員会(正式名称 : 国際連盟日支紛争調査委員会)の通称である。委員長(団長)はイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン。 概要調査団派遣の経緯1931年9月18日、柳条湖事件が発生し、中華民国国民党政府は、9月19日国際連盟に報告し、9月21日正式に提訴して事実関係の調査を求めた。 同年12月10日国際連盟理事会(以下「理事会」)は「国際連盟日支紛争調査委員会」(リットン調査団、以下「調査団」)の設置を決議する[1]。1932年1月14日、理事会は、委員(リットンら5名)の任命を承認した。同年2月29日、調査団は東京に着いた。日本、中華民国および満洲の調査をおこない、7月4日ふたたび入京した[2]。 1932年3月、国際連盟からリットンを団長とする調査団が派遣され、調査団は3カ月にわたり日本、満洲国、中華民国の各地を調査。10月に理事会に報告書(リットン報告書)を提出した。10月1日、日本政府に報告書を通達し、10月2日に外務省は公表した[2]。 調査団の構成〈委員〉は下記の5名[3]。
〈参与委員[4]〉 〈専門家[4]〉
なお、調査に関わる経費は、日本と中華民国の負担とされた。 調査団の旅程調査団は、1932年2月3日フランスの港を出港し、アメリカにわたりマッコイ将軍と合流。その後、太平洋を渡り[5]同年2月29日に横浜港に到着した。東京で日本政府や軍部、実業界などと面会した後中華民国へ向かい、上海、南京、漢口、北京(当時の呼称は北平)などを視察。4月に満洲地域を約1ヶ月間現地調査した後再び日本(東京)を訪問し、報告書の作成を北京で行ない、9月にイギリスに戻った。10月1日、連盟理事会に報告書が提出され、10月2日、世界にも公表された[6]。 報告書の内容正式書名『国際連盟日支紛争調査委員会報告書』(「Report of the Commission of Enquiry into the Sino-Japanese Dispute.」) 1932年10月2日に公表された報告書は序説および全10章からなる。内容は下記のとおり。
結論報告書では、
といった中華民国と満洲国の実情を述べた後、下記のように論じている。 と、中華民国側の主張を支持しながらも、
などの日本側への配慮も見られる。 紛争解決に向けた提言また、日支両国の紛争解決に向けて、下記のような提言を行っている。
報告書への各国の反応この報告により、イギリスやフランス、イタリアをはじめとする連盟各国は「和解の基礎が築かれた」と大きな期待をもった。リットンを長とする委員会は、1932年3 - 6月にわたり日本、満洲国および中華民国を調査し、9月に報告書を提出した。この間の3月1日に満洲国が独立を宣言、中華民国政府は承認しなかったが報告書提出前の9月15日に日本は同国の独立を承認した。 リットン報告書は「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また、満洲国の独立も自発的とはいえない」とした。しかし、「事変前の状態に戻ることは現実的でない」として日本の満洲国における特殊権益を認め、日支間の新条約の締結を勧告したが、この報告書をめぐり日支は対立した。内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを公的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の公表前に満洲国を承認し、「満洲国が国際的な承認を得る」という1点だけは譲れない日本はこれに反発した。この報告書への日本側の反論を書いたのが、日本外務省の法律顧問でイギリス人のトマス・バティであった。 1933年2月24日の国際連盟総会では「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の採択が付議された。この報告書はリットン調査団報告書を基礎に作成されたものであるが、その結論をすべて採用したわけではなく、満洲の主権については明確に踏み込んだ表現を使用し、法的帰属については争う余地がなく支那にあり、日本が軍事行動をとったことを自衛とは言えないとしたうえで、法律論及び事実の両面から満洲国の分離独立を承認すべきではなく、日本軍が満洲鉄道の鉄道地区まで撤退すべきである[8]とした。また日本の特殊権益を確認したうえで九カ国条約の原則を維持することを勧告した。 この総会報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項[9]および6項[10]についての条件が成立した。松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、日本政府は3月8日に脱退を決定(同27日連盟に通告)し、日本国内世論は拍手喝采をもって迎えた。42対1は当時日本で流行語になり語呂合わせで「向こうは死に体でこっちは1番なんだ」等と一部で評された。 なお、シャム(タイ)の棄権は各国代表を驚かせたが、当時の駐シャム公使矢田部保吉が、同国外相に対する再三再四の働きかけによって、「暹羅国ハ東洋ノ一国ナレハ日支両国何レニモ味方シ得ス、又敵トモ為シ得ス仍テ同国代表ハ満洲事変二関スル国際連盟ノ表決ニハ棄権スヘシ」(シャムロ国は東洋の一国なので日本・支那どちらの味方でも敵でもない。よって同国代表は連盟での票決には棄権する)との言質を引き出していたという経緯があった[11][12]。当時の同国では、1932年の立憲革命によって、対日関係を重視した政権が成立していた上、同国自身、膨張する華僑勢力との民族摩擦という国内問題を抱えており、支那の立場に同情できなかったという事情が指摘されている[13]。 その後1933年2月24日の連盟総会では、国際連盟が「公正かつ適当」(国際連盟規約15条4)とした当報告書による勧告において日本軍の自衛行為や満洲国建国の自発性は否認され、同日、リットン報告を基礎とした「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の同意確認にもとづき中華民国は連盟規約第16条(経済制裁)の対日適用を要求、また同日午後の総会では日本軍の熱河攻略を取り上げおなじく第16条の制裁適用を要求した。これらの要求は他の代表の沈黙および討議打ち切り宣言により黙殺された[14][15]。 その後、委員を出していたドイツ(1938年2月承認[16])やイタリア(1937年11月承認[17])が最終的には満洲国の国家主権を承認したほか、枢軸国や中立国を中心に十数カ国が承認をした(当時の独立国は今の4分の1程度の60か国程度)。 ただし、ドイツは再軍備に伴いベルサイユ条約を破棄し1935年に既に国際連盟を脱退しており、イタリアもエチオピア侵攻で侵略認定され、1937年12月には連盟脱退している。ポーランド第二共和国は満洲国と1938年10月19日交換公文により相互の最恵国待遇を承認した例外的な国であり、満洲国からは事実上の国家承認とみなされていた[18]。他の承認国について、ソ連の侵略を受けてドイツに頼らざるを得なくなったフィンランドや、独伊のユーゴスラビア侵攻の際に親ドイツ政権として分離独立したクロアチア、内戦時にドイツの義勇軍の支援を受けたスペイン、ドイツ占領下におかれたデンマーク、タイ王国など、日本の友好国や同盟国、同盟国の友好国が大半であった。 その他にも、ドミニカ共和国やエストニア、リトアニアは正式承認しなかったが国書の交換を行った。ソビエト連邦は日ソ中立条約締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約し、正式な国交こそ結んでいなかったものの、日本に対しては外交上一定の言辞を与えていたと言える。さらにイギリスやアメリカもフォード・モーターや香港上海銀行などの大企業の支店を満洲国内に設置するなど、国交こそ結んではいなかったものの様々な形で交易を行っていた。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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