ルキウス・ウォルカキウス・トゥッルス (紀元前33年の執政官)
ルキウス・ウォルカキウス・トゥッルス(ラテン語: Lucius Volcacius Tullus、生没年不明)は紀元前1世紀中期・後期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前33年に執政官(コンスル)を務めた。 出自トゥッルスは無名のプレブス(平民)であるウォルカキウス氏族の出身である。この氏族は紀元前100年頃から記録に登場してくる。ノーメン(氏族名)は、ウォルカティウス(Volcatius)と書かれることもある[1]。トゥッルスの父ルキウスはノウス・ホモ(父祖に高位官職者をもたない新人)であったが、紀元前66年に氏族として最初の執政官でに就任した。 ガリア戦争でカエサルのレガトゥス(副司令官)を務めたガイウス・ウォルカキウス・トゥッルスは弟であるという説と、従兄弟であるという説がある[2]。 経歴トゥッルスの若い頃については何もわかっていない。現存する資料での最初の記録は、彼がプラエトル(おそらくプラエトル・ウルバヌス、首都担当法務官)をつ務めていた紀元前46年のものである[3]。プブリス・コルネリウスという人物が、エクィテスであるルキウス・ティトウス・ストラボから借金をしおり裁判となったが、トゥッルスはこれをローマの法廷からガリアへと移している[4]。ストラボはキケロの友人であり、そのおかげでこの出来事が分かっている[5]。 法務官任期完了後の紀元前45年から紀元前44年まで、トゥッルスはプロプラエトル(前法務官)権限で、シリア属州の総督となった[6](隣のキリキア属州との説もある)。この頃シリアでは、クィントウス・カエキリウス・バッススが反乱し、カエサル派のガイウス・アンティスティウス・ウェトゥスと戦っていた。ウェトゥスはアパメイアでバッススを包囲することに成功するが、パルティアとアラブがバッススの援軍にかけつけ、ウェトスは大損害を被って撤退した。キケロによれば、ウェトゥスはこの敗北に関して、トゥッルスが全く援軍を送らなかったと非難している[5][7]。 トゥッルスに関する次の記録は、紀元前33年に執政官に就任したときのものである。同僚執政官はオクタウィアヌスであったが。オクタウィアヌスは1日だけで辞任し、代わってルキウス・アウトロニウス・パエトゥスが補充執政官となった。執政官としてのトゥッルスの業績は不明であり、4月末で離職して5月1日にはガイウス・フォンテイウス・カピトが補充執政官に就任した。パエトゥスも同時に離任し、ルキウス・フラウィウスが補充執政官となった[8]。 これ以降、トゥッルスに関する記録はない[5]。 家族詩人セクストゥス・プロペルティウスの友人トゥッルスは甥である可能性がある[5]。 脚注参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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