ルキウス・パピリウス・クルソル (紀元前326年の執政官)
ルキウス・パピリウス・クルソル(ラテン語: Lucius Papirius Cursor、生没年不詳)は紀元前4世紀の共和政ローマのパトリキ(貴族)出身の政治家・軍人。執政官(コンスル)を五度、独裁官(ディクタトル)を二度務めた。彼の厳格さは良く知られていた。強靭な肉体を持ち、その勇気に異議を唱えるものはいなかった。コグノーメンのクルソルは、彼の足の速さに由来するものである[1]。 経歴ルキウス・パピリウスは紀元前326年に執政官に就任。翌紀元前325年には、第二次サムニウム戦争に対処するため、独裁官に就任した。彼のマギステル・エクィトゥムであったクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスとの諍いはよく知られている。クィントゥス・ファビウスはルキウス・パピリウスの命令に逆らって敵と戦い、その命令違反の罪で一旦は死刑を言い渡された。しかし、父であるマルクス・ファビウス・アンブストゥス、元老院、ローマ市民の懇願により、ルキウス・パピリウスも死刑は取り下げた。 コグノーメン(第三名)であるクルソルは「走者」という意味であるが、これは彼が1日50ミーッレ・パッスス(ローマン・マイル)(約74 km)も行軍することができ、彼の兵士達にもそれを求めたためである。伝説によれば、古参の騎兵達が特権を求めてきた時、ルキウス・パピリウスは唯一つの特権のみを認めた:
このように兵士に対して厳格であったため、当初の戦いでは敗北してしまった。しかし、その後は兵士をより寛大に取り扱い、また戦利品を兵士に多く分配することを約束したため、兵士の信頼を獲得することができた;兵士達は果敢に戦い、勝利を得た。 紀元前321年、ローマ軍はカウディウムの戦いでサムニウム軍に降伏した。この屈辱の後、ルキウス・パピリウスは紀元前320年、紀元前319年と2年連続で執政官を務め、ルケラ(現在のルチェーラ)を降伏させ、いくらかの恥をすすいだ。街に捕らえられていたローマ軍捕虜を解放し、カウディウムで奪われた隊旗を取り戻した。また、カウディウムでサムニウム軍がそうしたように、敵兵7,000をくびきの下を一人ひとり屈んでくぐらせた。 紀元前315年、紀元前313年にも執政官に就任。この間にローマは一部のサムニウム部族と講和をしていたが、サムニウムは再び反乱した。ルキウス・パピリウスは紀元前310年に二度目の独裁官に任命され、紀元前309年にロングラ(en)で決定的な勝利を収めた。ローマに戻ったルキウス・パピリウスは壮大な凱旋式を実施しているが、これは紀元前324年、紀元前319年に続いて、彼自身三度目の凱旋式であった[3]。 彼の同名の息子であるルキウス・パピリウス・クルソルも有能な将軍であり、二度目の執政官となった紀元前272年にサムニウムを完全に従属させている。彼はクィリヌスの神殿にローマに最初の日時計を置いたとされる[4][5][6]。 オペラルキウス・パピリウスはルキオ・パピリオ・ディッタトーレ(Lucio Papirio dittatore)というバロック様式のイタリア・オペラの主人公となっている。 参考資料
関連項目
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