レオ・アフリカヌス
レオ・アフリカヌス(Leo Africanus,1485年? - 1555年?)の名前で知られるハッサン・アル=ワッザーンは、全名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーン(al-Hasan ibn Muhammad al-Zayyātī al-Fāsī al-Wazzān, حسن ابن محمد الوزان الفاسي)といい、ムーア人の旅行家、地理学者である。“レオ”はローマ教皇レオ10世から与えられた名で、“アフリカヌス”は通称にあたる[1]。 来歴1489年から1495年の間に、スペインのナスル朝の首都グラナダのアラブ系イスラーム教徒の家庭に生まれる。1492年のレコンキスタによるグラナダ陥落後、家族とモロッコのフェズに移住し、叔父から教育を受け17歳で伴われて1509年から1513年にかけてソンガイ帝国を訪れた。数年後、再びこの地を訪れエジプトまで旅をした。1518年ごろトルコ旅行の帰途、シチリアのジェルバ島の近くで海賊に捕えられる。ローマに送られて教皇レオ10世に献上され、洗礼名としてヨハンネス・レオを与えれられて教皇に仕えるようになり、キリスト教に改宗した。しかし教皇の死後はチュニジアに行き、再びイスラム教徒に戻ったといわれるが、晩年は謎が多い[1]。 16世紀初めサハラの南を含む北アフリカ全域を旅し、その見聞を口述筆記による見聞録『海と陸の旅(航海と旅について)』にまとめた。この本は1550年にヴェネツィア共和国でイタリア語で出版されて反響を呼び、のちに『アフリカ誌』と改題されて1556年フランス語とラテン語に翻訳され、1600年には英語に翻訳された。16世紀末までにほぼヨーロッパ全域で読まれるようになり、ヨーロッパにおいて黄金の国マリの風評が広まり、トンブクトゥを黄金郷とする伝説がつくり出され、その伝説は19世紀まで存続するほどであった[注釈 1]。この全9巻よりなる大著『アフリカ誌』は長いあいだ、ヨーロッパ人がイスラーム世界のアフリカを知るための最も貴重な手掛りであった[3]。 脚注注釈出典参考文献
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