ワッハーブ派
ワッハーブ派(アラビア語: وهابية, Wahhābiyyah、英: Wahhabism)は、18世紀にアラビア半島内陸のナジュドに起こったイスラム教の改革運動による宗派である。宗派としてはスンナ派に属するが、その下位宗派に数えられる場合もある。法学的には、イスラム法学派のうち厳格なことで知られるハンバル派に属する。 また、ワッハーブ主義は第一次ワッハーブ王国(または第一次サウード王国)などによるアラビア半島諸国の統一とオスマン帝国への反発に貢献した。 概要創始者はムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(ワッハーブ)。一般にイスラム原理主義として知られている復古主義・純化主義的イスラム改革運動の先駆的な運動であると評価される。 ワッハーブは、18世紀半ばに、コーランとムハンマドのスンナに戻り、イスラム教を純化することを説き、当時ナジュドで流行していた聖者崇拝、スーフィズムを、タクフィールにより異端者として激しく排撃した。 1745年にムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブはワッハーブ派とナジュドの豪族であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードとの間で盟約を結んだ。これ以降から現代にいたるまでサウード家はワッハーブ派の守護者となり、教えを受け入れてワッハーブ派を保護し、ワッハーブ派の運動を広げつつ勢力を拡大した。こうして形成されたサウード家の国家をワッハーブ王国と呼ぶが、19世紀初めにカルバラー、メッカを破壊して大虐殺を行った結果オスマン帝国と敵対してムハンマド・アリーに滅ぼされた。また、18世紀前半にはメッカ巡礼者サイイド・アフマドによってインドにも伝えられたが、1824年以後にシク教徒に対するジハードを宣言したが、彼の没後その勢力拡大を危惧したスンナ派・シーア派がイギリス当局とともにこれを抑圧して1870年代には消滅に至った。19世紀末には中国にも伝えられ、イフワーン派が形成されるも[1]、イフワーン派はワッハーブ派を否定しており、ワッハーブ派に忠実なサラフィーヤ派と対立した[2]。 20世紀初めにワッハーブ派のイフワーンと手を組んだサウード家のアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード(イブン・サウード)がリヤドを奪回してからワッハーブ派は国教として復興した。サウード王国がナジュドとヒジャーズを征服してサウジアラビア王国を建国すると、ワッハーブ派はシーア派が強いイエメンを除いたアラビア半島の大部分に広がった。さらに1979年、イラン革命が起こると危機感を抱いたサウジ王室との結びつきは、より鮮明となった[3]。 ワッハーブ派は現在もサウジアラビアの国教であり、宗教警察が国民に対して目を光らせている。また、王家が国庫を私物化しているという不満を受け止める存在ともなっている。同国出身のオサマ・ビンラディンも元々ワッハーブ派に属する信徒であったとされる。 中央アジアのウズベキスタンなどではワッハーブ派というと特別な響きを持つ(反政府的な態度を取る人たちにレッテル張りをし、矮小化する為にこの言葉が使われている)[要出典]。 ワッハーブ派はサウジアラビアの国教であるが、現代では法的権利擁護委員会などワッハーブ派がサウジアラビア政府から弾圧を受けていると主張する団体もある[要出典]。 現在ではモスクで行われるウラマーの説法でもファトワーでも他国への侵略やテロを正当化するような発言をすれば公職追放などの厳しい処罰を受けるようになり[要出典]、ワッハーブ派の唱えるジハードを主張すればサウジアラビア政府から弾圧されるという状況に追い込まれている[要出典]。 また、西洋的人権擁護や女性の権利擁護など本来のワッハーブ派の主張と相容れない法制度が次々と施行され[要出典]、反対すれば弾圧されるという状況になっている[要出典]。 法的権利擁護委員会は弾圧され、イギリスに政治亡命した組織である。 特色ワッハーブ派の三大理念として以下のものがある。 ワッハーブ派はこれら三大理念の実施の結果、極めて厳格なシャリーア(イスラーム法)の遵守、聖地の聖廟の破壊などを行っている[要出典]。
脚注
参考文献
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