三木喜夫三木 喜夫(みき よしお、1909年(明治42年)8月24日[1] - 1975年(昭和50年)5月12日[2][3])は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 経歴兵庫県姫路市出身[1]。1928年(昭和3年)兵庫県姫路師範学校を卒業した[2][3]。 兵庫県内の公立学校の訓導、姫路市立余部小学校長、管理主事、姫路市立粟生小学校長などを歴任[3]。その後、兵庫県教職員組合中央執行委員長、兵庫県官公労議長、兵庫県学校生活協同組合理事長、兵庫県教職員組合協議会会長、日本ユネスコ国内委員会委員などを務めた[2][3]。 1960年(昭和35年)11月の第29回衆議院議員総選挙に兵庫県第4区から日本社会党公認で出馬して初当選[2][3][4]。以後、1969年(昭和44年)12月の第32回総選挙まで再選され[5]、衆議院議員に連続4期在任した[2][3]。この間、社会党本部会計監査、同遊説部長、同院内役員、同科学技術副委員長、同国会対策副委員長、同電通合理化対策特別副委員長、同中央執行委員(企画室担当)、同兵庫県本部委員長などを務めた[2][3]。その後、第33回総選挙に立候補したが次点で落選した[6]。 のち、関西国民教育研究所長に就任した[3]。 脚注参考文献
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