上小田中
上小田中(かみこだなか)は、神奈川県川崎市中原区の町名。現行行政町名は上小田中1丁目から上小田中7丁目で、住居表示実施済区域[5]。 地理中原区の北西部に位置し、南武線と二ヶ領用水に挟まれる形で平地が広がっている[6]。中央部にある富士通の工場裏門あたりを境界として、北側に大ヶ谷戸(おおがいと・おおがやと[7])、南側に神地(ごうじ)という呼び名があり、今も通称や施設名として残っている[6]。中央部には富士通の工場(登記上の本店所在地)や中原区という名前の由来となった中原街道、そして南武線と中原街道の交点には武蔵中原駅があり、周辺には住宅地が広がるほか、野菜畑なども残っている[6]。 上小田中は北端で高津区の北見方や坂戸と、北東端では二ヶ領用水を挟んで宮内や小杉御殿町と、南端で今井上町や今井西町と、南西端で下小田中や新城中町・新城・上新城 と接している(特記のない町域は中原区)。 地価住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、上小田中2-36-23の地点で40万2000円/m²[8]、上小田中6-36-13の地点で43万4000円/m²[9]となっている。 歴史中世「小田中」の名が史料に登場するのは1164年(長寛2年)の「大江某注進状」であり、当地が藤原氏の荘園であったこと、また年貢として八丈絹を納めていたことが読み取れる[6]。小田中が上下に分かれたのは戦国時代頃と見られ、1549年(天文18年)に吉良頼康が泉沢寺を「上小田中宝地」へ移した記録が残るが[10]、「小田原衆所領役帳」では「小田中」となっている[11]。 江戸時代江戸時代の当地は、大ヶ谷戸と神地の2つに分かれていて、神地は1636年(寛永13年)以降、枝村として一村のような扱いを受けていた[12]。大ヶ谷戸はもともと「大茅野」と呼ばれていたが、吉良氏の家臣である原氏が、故地の関蝉丸神社を当地に勧請し、同社の鎮座する「大谷」から名付けられたという伝承がある[6]。当地は寛永10年時点では天領であったが、幕末には一部が旗本領や寺領となっていた[11]。また、村高は正保期の「武蔵田園簿」で823石(別に泉沢寺領が20石)、幕末の「旧高旧領取調帳」では合計844石あまりと[12]、ほぼ一定で推移していた。 近現代明治時代となり、町村制の施行とともに中原村が成立すると、当地はその中心地として、村役場や銀行ができるなど栄え、また桃の生産も盛んとなった[11]。昭和に入ると南武鉄道(現・南武線)が開通し武蔵中原駅が設置されたこと、さらには富士通信機(現・富士通)や中島飛行機の工場が設置されたことで当地は大きく姿を変えていき、また軍需産業として空襲を受けることとなった[12]。 戦後には中島航空機の跡地に日本鋼管(現・JFE)の社宅が建設される[11]などの動きもあったが、二ヶ領用水の改修に合わせて中小の工場が立地する[7]など、工業地としての性格も持ち続けている。 地名の由来由来は不明であるが、水田地帯であることから「田中」の名が付き、それに接頭辞の「小」が加わったとも考えられている[10]。その後、上小田中・下小田中に分かれている。 沿革
町域の新旧対照上小田中が住居表示を施行する前の字は、以下のようになっていた[13]。なお、特記のない字はその一部が現町丁に含まれている。また、上小田中字道下耕地の一部が今井上町に編入されている[13]。
世帯数と人口2024年(令和6年)9月30日現在(川崎市発表)の世帯数と人口は以下の通りである。なお、4丁目は全域が富士通の関連施設であり、住民登録している住民はいない[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年3月時点)[20][21]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[22]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通鉄道JR南武線が上小田中の南西端を通り、武蔵中原駅や鎌倉車両センター中原支所が所在する。なお、北方では同線の武蔵新城駅も利用可能である。 バス鷺沼駅と小杉駅を結ぶバス(東急バス東山田営業所、川崎市バス菅生営業所担当)や、南武沿線道路経由で小杉駅と溝口駅を結ぶバス(川崎市バス上平間営業所担当)、中原駅と小杉駅を等々力緑地経由で結ぶバス(川崎市バス上平間営業所担当)が当地を経由している。 道路
施設寺社教育機関
その他日本郵便警察町内の警察の管轄区域は以下の通りである[27]。
脚注
参考文献 |