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下田次郎

下田 次郎
人物情報
生誕 (1872-04-13) 1872年4月13日
日本の旗 日本広島県広島市
死没 1938年3月24日(1938-03-24)(65歳没)
出身校 帝国大学
子供 下田武三(三男・外交官)、下田弘(四男・哲学者)、下田吉人(七男・外交官)
学問
研究分野 教育学
研究機関 女子高等師範学校
学位 文学博士
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下田 次郎(しもだ じろう、明治5年3月6日1872年4月13日) - 昭和13年(1938年3月24日)は、日本の女子教育家。

経歴

1872年、広島県広島市上流川(現在の同市中区幟町付近)の生まれ[1]。元広島浅野藩多羅尾家に生まれるが1876年、陸軍少尉となっていた父が神風連の乱により熊本城内で戦死、幼少にして下田収蔵の養子となる。下田家も広島浅野藩家臣の家系[2]

広島県立中学(現・広島国泰寺高等学校)、第三高等中学校を経て1886年帝国大学文科大学哲学科を卒業、引き続き大学院に入学して「教育の心理的基礎」について研究した。1899年女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授、1899年から1902年までイギリス、アメリカ、ドイツに留学。帰朝して「女子教育研究の基礎としての性の研究」で文学博士の学位を得て、東京女子高等師範学校教授として1937年退官(名誉教授)まで教鞭をとる。修身教育を担当し、女子教育に於いて良妻賢母思想を基調とした論陣を長く張った。東京女子高等師範学校は、当時、日本に於ける唯一最高の女子高等教育機関であった。

1904年に出版した代表的著作『女子教育』は、日本で最初の女子の身体及び精神に関する系統的説述とされる[3]。またこの年、大日本女子教育会を設立し、その機関誌として「女子教育」を15年間にわたり発行した。日本の女子の教育程度を高め、日本全体の女子の教育の振興に大きな功績を残した人物である。墓所は染井霊園

受賞・栄典

家族・親族

著書

  • 教育原論 金港堂 1899.10
  • 女子教育 金港堂 1904.12
  • 新女訓 明治書院 1906.10
  • 西洋教育家肖像 金港堂 1906.6
  • 教育思想の変遷 育成会 1906.5
  • 西洋教育事情 金港堂 1906.12
  • 論理学講義 十日医会 1907.12
  • 女学校用教育学 国光社 1907.11
  • 小学各科教授法 同文館 1907.11
  • New selections for normal schools 金港堂 1907
  • 女子之修養 博文館 1908.3
  • 女子のつとめ 博文館 1909.10
  • 現代児童教訓実話 同文館 1910.7
  • 教育学 同文館 1910.12
  • 近世教育史 同文館 1911.2
  • 胎教 実業之日本社 1913
  • 教育と人格 敬文館 1914
  • 母と子 実業之日本社 1916
  • 性の原理 同文館 1921
  • 婦人の使命 実業之日本社 1922
  • 運動競技と国民性 右文館 1923
  • 婦人の務 博文館 1923
  • 女子新修身書教授備考 1~5 修正2版 東京開成館 1927
  • 女性の心理と教育 大正書院 1927
  • 婦人と希望 実業之日本社 1928
  • 人間味の教育 東洋図書 1929
  • 高等教育女子教育学 東洋図書 1931
  • 現代教訓実話集 第1、2巻 東洋図書 1930-1931
  • 魂の教育 東洋図書 1934
  • 人格と実行 東京開成館 1936
  • 女性の道 大日本図書 1937
  • 拓け行く道 東洋図書 1938
  • 母性読本 実業之日本社 1938
復刊
  • 女子教育 玉川大学出版部 1973(教育の名著 1)

共編著

  • 日本家庭百科事彙 芳賀矢一共編 冨山房 1906.11
  • 日本教育家肖像 金港堂 1907.5
  • 新撰女子読本 巻4 尾上八郎共編 明治書院 1922

翻訳

脚注

  1. ^ 新日本人物大観(広島県版、人事調査通信社、1959年、シ・ス...19頁)
  2. ^ 『データバンクにっぽん人』(佐藤正弥編、1982年、10頁)
  3. ^ 女子教育 (玉川大学出版部、1973年、479頁)
  4. ^ 『官報』第2480号「叙任及辞令」1935年4月12日。
  5. ^ 新日本人物大観

参考文献

  • 女子教育 玉川大学出版部 1973(教育の名著 1)
  • 新日本人物大観(広島県版) 人事調査通信社 1959年

外部リンク

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