世尊寺 (奈良県大淀町)
世尊寺(せそんじ)は、奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院。山号は霊鷲山。本尊は阿弥陀如来(放光樟像)。聖徳太子霊跡第7番札所である。 古くは「比曽寺(ひそでら、比蘇寺)」と呼ばれ大規模な伽藍を構えていたが、現在の世尊寺は江戸時代に整備縮小して再興されたものである。かつての寺域は、1927年(昭和2年)4月8日に「比曽寺跡」として、国の史跡に指定されている。 歴史創建古くは吉野寺と呼ばれ、聖徳太子が建立した48か寺の一つと伝えられている。同寺に残っている瓦や東塔・西塔の三重塔を要する薬師寺式伽藍配置などから、少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)には存在していたようである。 奈良時代には、吉野寺比曽(比蘇)山寺と呼ばれ、後述する現光寺の寺名の由来となった仏像が安置された。渡来僧の道璿は晩年比蘇山寺に入り、修禅に精励したと伝わる。また著名な僧侶・神叡が住み、20年間三蔵を学んで自然智を得たという。 平安時代になると現光寺とも呼ばれるようになった。その現光寺という寺名に関しては、本尊の阿弥陀如来座像と木造十一面観世音菩薩立像が光を放っていたという話に由来している。このことは、古くは日本書紀に載せられている。
当寺は清和天皇、宇多上皇や藤原道長などが吉野への参詣の途中に訪れ、大いに栄えたが、その後は衰退した。 鎌倉時代に入り、弘安2年(1279年)に金峯山から春豪聖人が比蘇寺に移り、再興に努めた。また西大寺を復興した叡尊の留錫により真言律宗となっている。さらに南朝:延元2年、北朝:建武4年(1337年)には文観が先達となって後醍醐天皇が行幸し「栗天奉寺(りってんほうじ)」と命名され、勅願寺となっている。 東塔の移築安土桃山時代にはすでに西塔は戦乱によって焼失していたが、鎌倉時代末期から室町時代初期に建てられた東塔は健在であった。しかし、文禄3年(1594年)豊臣秀吉によって解体され、伏見城に移築された。さらに慶長6年(1601年)には徳川家康によって近江国の園城寺(三井寺)に移建された。この三重塔は重要文化財として現在も残っている。 その後再び衰退し荒廃するが、江戸時代になって塔頭・法輪寺の力添えで浄土宗に改宗し復興が図られた。しかし、享保18年(1733年)3月に法輪寺が失火で全焼し、当寺の再興は中断された。 その後、当寺は更に曹洞宗に改宗したために、塔頭の法輪寺は浄土宗寺院として当寺から独立している。 寛延4年(1751年)、雲門即道により曹洞宗寺院として伽藍を整備・縮小して霊鷲山世尊寺と寺名を改めて再興し、現在に至る。 江戸時代には松尾芭蕉が訪れて、「世にさかる 花にも念佛 まうしけり」の句を残している。句碑は納骨堂の裏にある。 境内
文化財国指定史跡
奈良県指定有形文化財
大淀町指定有形文化財
前後の札所アクセス近鉄吉野線六田駅より奈良交通バス「比曽口」下車、徒歩15分。 よどりバス、幹線ルート・循環ルート「北野台5丁目」下車、徒歩5分。 よどりタクシーに「世尊寺前(東6)」という乗降場所があるが、利用できるのは、事前登録を済ませた大淀町民に限られる。 外部リンク |