世良親王
世良親王(ときよししんのう/よよししんのう[注釈 1]、? - 元徳2年9月17日(1330年10月29日))は、鎌倉時代後期の皇族。後醍醐天皇の第二皇子[1]。母は西園寺実俊(橋本実俊)の娘遊義門院一条局[1]。尊良親王の弟。官職は大宰帥、上野太守[1]。 生涯亀山上皇の皇女昭慶門院に養育され、後醍醐天皇の側近「後の三房」のひとり北畠親房が乳父となった[1]。昭慶門院から愛育され、その遺領18カ所を相続した[3]。 聡明で父の後醍醐天皇の期待をかけられていたが、早世してしまった[1]。元徳2年(1330年)は病が広く流行した年で(『増鏡』)、世良親王は9月13日(西暦10月25日)夜には既に病状が悪化して絶望的な状況にあり、遺言を書き記す力もなく、親房に遺命を託した(『天竜寺重書目録』(『天竜寺文書』)元徳2年9月17日条、北畠親房記)[4]。世良は同月17日(西暦29日)に薨去し、同日中に親房によって遺命書が作成された(前出『天竜寺文書』)[4]。森茂暁の推測によれば、享年20歳前後ではないかという[3]。遺言により別業河端殿が禅院として寄進されたが(前出『天竜寺文書』)、これが現在の京都嵐山臨川寺である[1]。 親房は親王に殉じて出家し、「宗玄」と号した[1]。 命日について『公卿補任』には「親王御事」による親房出家が元徳2年9月17日とあり、『本朝皇胤紹運録』および『大日本史料』稿本の綱文も親王薨去に17日説を採用し[5]、『朝日日本歴史人物事典』(森茂暁担当)もこれに従う[3]。親王の傅役を務めた北畠親房の評伝を記した岡野友彦も、『天竜寺文書』に含まれる親房自身の文書によって17日説を採る[4]。 一方、『常楽記』には9月18日「薨御」とあり[5]、『国史大辞典』(村田正志担当)はこちらの説に従う[1]。 脚注注釈出典参考文献
|