仁王門通仁王門通(におうもんどおり)は、京都市左京区の東西の通りの一つ。鴨川東岸に位置し、西は川端通から、東は白川通との交差点から南東に進み三条通と合流する。 概要三条通の蹴上交差点から東大路通までは2車線の広い道で三条通のバイパスとして機能している[1]。琵琶湖疏水を隔てた北には岡崎の文化施設の並ぶ一角がある。東大路通から川端通までは西行一方通行の狭い道で住商混在の通りである。 鴨川東岸の南北の通り宝永5年(1708年)3月に起こった火災(宝永の大火)のあと、御所の拡張に伴う寺院および丸太町通北側の町の移転により、鴨川東岸の仁王門通を中心に、二条通・仁王門通間と仁王門通・孫橋通間に南北の通りが開かれた。 仁王門通の南側(西から)新丸太町通川端通から一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通から南は三条通の一筋北に位置する孫橋通まで、途中交差する通りのない延長300m足らずの通りである。御所拡張のため、丸太町通の沿道住民が移住してきたためこの名があるという。通り名にちなむ新丸太町1町により構成される。 なお、丸太町通の円町交差点以西の新規開通区間については、丸太町通の記事を参照。 新麩屋町通新丸太町通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通で日蓮宗本山の頂妙寺に行き当たり、南は三条通まで。大菊町1町により構成される。頂妙寺も大菊町に含まれる。 新富小路通新麩屋町通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通で新車屋町通とつながり、南は三条通の一筋北に位置する孫橋通まで。富小路通丸太町上るに位置した讃州寺町が移転して開かれた。旧町名を引き継ぐ讃州寺町1町により構成される。 新柳馬場通新富小路通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通で新東洞院通とつながり、南は三条通を隔てて花見小路通につながる。柳馬場通丸太町上るに位置した駒薬師町が移転して開かれた。現在は菊鉾町1町により構成される。 新堺町通新柳馬場通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通で新間之町通とつながり、南は三条通まで。堺町通丸太町上るに位置した駒本町が移転して開かれた。現在は和国町により構成される。 新高倉通新堺町通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通から孫橋通まで。高倉通丸太町上るに位置した要法寺が移転して開かれた。現在、通りの東側は寺院が並び、住居は主に西側にある。 仁王門通の北側新車屋町通北は二条通から南は仁王門通に至る南北の通り。仁王門通で新富小路通とつながる。車屋町通丸太町上るに位置した大炊町が移転して開かれた。通り名にちなむ新車屋町1町により構成される。 新東洞院通新車屋町通の一筋東に位置する南北の通り。北は二条通から仁王門通まで。仁王門通で新柳馬場通とつながる。東洞院通丸太町上るに位置した三本木町が移転して開かれた。通り名にちなむ新東洞院町1町により構成される。 明治2年(1869年)に上京第33番組小学校として開校した新洞小学校が西側に位置する。 新間之町通新東洞院通の一筋東に位置する南北の通り。北は二条通から仁王門通までの短い通り。仁王門通で新堺町通につながる。間之町通丸太町上るに位置した頭町が移転して開かれた。頭町の名は間之町通の頭端部(丸太町以北)に位置したことにちなみ、現在も旧町名を引き継ぐ頭町1町により構成される。町屋が並ぶ。 西寺町通東大路通の一筋西に位置する南北の通り。北は二条通から仁王門通まで、途中交差する通りのない延長300m足らずの通りである。宝永の大火のあと、寺町通の荒神口から二条通の間に位置した寺院が移転して開かれた。現在も町名となっている正住寺ほか、両側はすべて寺院によって占められ、民家は無い。南には筋交いに新高倉通が孫橋通まで伸びる。 対になる東寺町通は、東山通(現在の東大路通)の建設により吸収消滅した。
沿道の主な施設
交差する道路など
公共交通バス路線は設定されていない。 脚注関連項目
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