他戸親王
他戸親王(おさべしんのう)は、光仁天皇皇子。母は井上内親王(聖武天皇皇女)で、天武天皇の女系来孫にあたる。皇太子に立てられたが、のちに母井上内親王の大逆の罪により廃され、庶人に落とされて幽閉先にて没した。 経歴天平宝字5年(761年)[1]、白壁王(のちの光仁天皇)と井上内親王との間に生まれる。当時の天皇は、母方の叔母(母の異母妹)の称徳天皇であった。 父の白壁王は天智天皇の孫であるが、当時の皇統は天武天皇系に移されて久しく、白壁王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下、天智天皇の曾孫で聖武天皇(天武天皇の嫡流)の皇女を母に持つ他戸王が注目されるようになる[2]。やがて称徳天皇が崩御すると、藤原永手らによって他戸王の父である白壁王が皇位継承者として擁立された。そして宝亀元年(770年)に白壁王は即位し、光仁天皇となった。翌宝亀2年1月23日には、他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。 ところが宝亀3年(772年)、突如皇后の井上内親王が夫である天皇を呪詛したという大逆のかどで皇后を廃され、5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃された。更に翌宝亀4年10月19日には、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母と共に急死した(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。 この事件により、異母兄の山部親王が替わって皇太子に立てられ後に桓武天皇として即位するものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で他戸親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両天皇を悩ませることになる。 系譜系図
脚注
|