休戦協定休戦協定(きゅうせんきょうてい)あるいは停戦協定(ていせんきょうてい、armistice)とは、戦争や武力紛争を行う双方の勢力が戦闘を停止するための協定。英語の "Armistice" は、ラテン語の arma(兵器)と stitium(停止)から来ている。 概説休戦協定(停戦協定)の前に、まず停戦(ceasefire)または休戦(truce)のための交渉がどこかで行われている必要がある。通常、双方が一定の条件や限定された期間や指定された地域内で敵対行為や暴力を一時的に停止する協定となる。クリスマス休戦や断食月休戦などの一時的な休戦協定も含まれる。伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く(ハーグ陸戦条約36条)文書の手交を要件としない。停戦状態の間、負傷者や犠牲者の救出を行ったり、講和条約(平和条約)締結のための交渉を開始したりすることもあるが、一方的な降伏受諾ではなく双務的な休戦協定に過ぎないため、休戦協定に重大な違反が見られた場合には当事国はその合意を破棄することもでき(ハーグ陸戦条約40条)、休戦協定を破棄して戦争再開になるということはいつでもあり得る。また、休戦協定がなくても、双方の間で第三者を介するなどして講和条約(平和条約)が締結さえされれば終戦となる(アメリカ独立戦争のヨーロッパでのパリ条約 (1783年)・ヴェルサイユ条約 (1783年)、日清戦争黄海海戦後の下関条約など)。 休戦協定は局地戦での軍隊同士の "modus vivendi" (暫定協定)であることが多いため、講和条約(平和条約)のような恒久的な性質を持ち得ない。また、部隊の降伏による武装解除も行われない。しかし降伏したわけではないので双方の主権が維持され続け、かつ、戦争も停戦できる[1][2]。このため休戦の成立は講和の成立よりも容易である。1953年7月27日の朝鮮戦争停戦のように、講和条約交渉のないまま、長期間にわたって戦闘停止状態が継続するという事例も見られる。 国連安全保障理事会は創立以来、国連憲章を大義名分として世界各地の紛争当事国に対ししばしば停戦決議を課し、または課そうとしてきた。これは国際連合安全保障理事会常任理事国5か国の軍事力を背景としているようにも見えるが、国連決議に基づく有志軍以上の国連軍が国連常任安保理5か国を含めて正式に編成されたことはなく、そのため、他の国連決議もしばしばそうであるが、しばしば実効性に乏しい。また、このため、遵守義務を自らに課す当事者同士の停戦協定のほうが国連による停戦勧告決議よりも束縛力が高いと比較考証する向きもある。 休戦協定の最大の利点は、戦争を行う双方のうちどちらかが降伏をしなくても双方とも降伏の場合よりは遙かに好都合な形で戦争を止められる、という点にある[1]。これは、戦争の敗者が国際法によりもたらされるもの以外の一切の条件なしで降伏して戦争を終わらせるという無条件降伏とは究極の好対照である[2]。
休戦協定の事例休戦オマーン
第一次世界大戦アメリカ合衆国でもっとも有名な休戦協定といえば、1918年11月11日に第一次世界大戦を終わらせた連合国とドイツの休戦協定である。アメリカでは定冠詞の "The" をつけて呼ばれており、単に休戦協定 "Armistice"といえば「11月の11日の11時」の休戦協定のことである。11月11日のArmistice Day(停戦記念日)またはその直前の日曜日を今でも「戦没者追悼の日(Remembrance Day)」「退役軍人の日(Veterans Day)」として休日にしている欧米の町は多い。
戦間期第二次世界大戦第二次世界大戦において、連合国のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト大統領は、枢軸国に対して条件交渉を行った上で戦闘を停止する従来の方式を認めず、無条件降伏を求める方針をとった。このため枢軸国のドイツと連合国の間での休戦交渉は一切行われず、休戦協定は結ばれていない。イタリア王国とは1943年9月3日に休戦協定が結ばれたが、9月26日に同文書は降伏文書に変更され、イタリア王国はこれを受諾した。ソビエト連邦が主に戦っていた東欧および北欧の枢軸国との間ではこの方針は徹底されず、休戦協定が結ばれている。東欧および北欧枢軸国は1947年のパリ条約締結によって講和している。
第二次世界大戦以降の休戦協定国際連合の発足以降は当事国が交渉して休戦協定を締結するだけではなく、国連機関が休戦条件を策定し、それを当事国が受け入れることによって休戦が成立する事例も見られる。
→「2023年イスラエル・ハマース停戦協定」を参照
脚注
参考文献
関連項目 |