佐藤蛾次郎
佐藤 蛾次郎(さとう がじろう、1944年〈昭和19年〉8月9日 - 2022年〈令和4年〉12月9日)は、日本の俳優・タレント。 大阪府高石市出身。E・NESTO所属。息子は俳優の佐藤亮太。 来歴1953年に朝日放送児童劇団に入団する。1961年に『神州天馬侠』の泣き虫蛾次郎を演じてから、芸名を佐藤 蛾次郎とする[2]。 1968年にはテレビドラマ『男はつらいよ』に出演。1969年からは映画の『男はつらいよ』に柴又題経寺の寺男・源吉(愛称:源公、源ちゃん)役で出演。最新作の2019年まで出演し続け、本シリーズに欠かせない存在となる。ファンからは全50作全てに出演したと思われているが第8作の『男はつらいよ 寅次郎恋歌』のみポスターに名を重ねているものの撮影直前に交通事故に遭い緊急入院したため出演していない。2018年11月4日に開かれた「寅さんサミット」で佐藤は当時のことについて「(自分が)助手席に乗っていたBMWが、100キロでガードレールに突っ込んじゃった。肋骨が5本折れた」と告白し、「2か月の重体。ワンカットも出られない。しょうがないね」と残念な想いを語っている[3]。 1970年代から1980年代にはアフロヘアーにしていたが、『柳生一族の陰謀』、『戦国自衛隊』、『服部半蔵 影の軍団』などの時代劇でも丁髷のカツラを被らず、人の良い男をコミカルに演じ、そのヘアスタイルは佐藤の売りにもなっていた。 2022年12月10日午前10時過ぎ、東京都世田谷区の自宅浴室で風呂に浸かった状態で動かなくなっているのを親族が発見し、その場で死亡が確認された。死因はヒートショック現象に起因する虚血性心不全とみられている[4][5]。78歳没。死亡日は9日と診断された[6]。 2023年8月2日、お別れの会が催され、山田洋次・前田吟ら約250人が別れを惜しんだ[7]。山田は「僕より若いのに先に逝くなんて…」と悔やみ、佐藤の力量・個性で“源ちゃん”の存在感をスクリーンで示したことは芝居の巧緻より大事と評し、一緒に仕事をできたことに感謝し、ねぎらった[7]。天性の愛嬌で撮影現場で人気者で、特製の薬膳カレーは出演者・スタッフに大好評だった[7]。約60年の親交があって、同い年の前田は「千葉真一さん、松田優作さん、渥美清さんという大スターに好かれていた」と振り返って、それを羨ましがり、「戦友を亡くして悲しい。天国でお兄ちゃん(渥美)とカラオケでもしているんでしょう」と追悼した[7]。倍賞千恵子は手紙で「がじさんは人を思いやり、大事なことは決して忘れない。さすがお兄ちゃんの弟分だね。ありがとう、がじさん」と弔意を表した[7]。祭壇は白色を基調とした花で彩られ、お気に入りだったという2000年頃のアフロヘアー姿が遺影に使用され、会場には出演作の台本など思い出の品約40点が展示された[7]。戒名は「慈愛院和演日忠居士(じあいいんわえんにっちゅうこじ)」[7]。 人物料理料理が得意で1974年、新橋駅近くにスナック「撫子」を出店[8][9][10]。1977年に東京都中央区銀座へ「PoPo」として移転する[8]。1996年10月からは銀座でカラオケスナック「Pabu 蛾次ママ」を妻と開店、後に長男の佐藤亮太も加わり営業していた[8][11][12]。 「蛾次ママ」の常連客には千葉真一・桜木健一・小沢真珠・矢部美穂・渡嘉敷勝男・城咲仁・猫ひろしがおり、かつて経営していたカレーハウスで出されていた二日酔いしない薬膳カレーを、「蛾次ママ」では「寅さんカレー」として限定裏メニューになっている[11]。前の店からの常連では渥美清・倍賞千恵子もいた[8]。「撫子」では『浮浪雲』で共演した渡哲也・桃井かおりが来店し、公私に亘って親睦を深めた原田芳雄・松田優作が訪れ、「撫子ライブ」という宴を催している[9]。薬膳の知識も豊富で、作った薬膳酒を山田洋次に飲んでもらったが、酔いつぶれた山田は寝込んでしまい、『男はつらいよ』の撮影が一時ストップしてしまった。毎年、正月には手作りおせちや雑煮を山田に届けていた[8]。 妻の死後は亮太と切り盛りをしていたが、コロナ禍の影響により来客が減少し2020年12月31日をもって閉店となった[8][9][12]。亮太は特撮ヒーロー作品『魔弾戦記リュウケンドー』で蛾次郎が演じた源公をモデルとしたキャラクター「ガジロー」を演じている。『トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE マッハトレインをレスキューせよ!』の同時上映作『爆走!トミカヒーローグランプリ』では亮太との親子共演を果たしている。 『ふるさとZIP探偵団』でも蛾次郎は料理を披露している。 エピソード普段はコミカルな雰囲気を漂わせている『男はつらいよ』の源公と異なり、長い髪を束ねどことなくダンディーさを漂わせている。長髪にしている理由は『男はつらいよ』の源公を演じた時に既にスケジュールが多忙になっており、散髪に行くにも行けなかったので気が付いたら長髪が似合っていたからである(本人談)。『反逆のメロディー』ではギターを弾きながら2曲の歌を披露している。 『男はつらいよ』の共演者・前田吟からは「蛾次やん」の愛称で親しまれている。持ち前の面倒見の良さから、松田優作ら当時の若手俳優からは「蛾次兄」 と慕われ続けている。『時効警察』で共演したオダギリジョー、麻生久美子ら若手俳優達からは役者としての姿勢を絶賛されている。 尊敬する人物は嵐寛寿郎。 初期にはスクープの獲れない記者だった梨元勝に[注 1]、「なんにもナシモト」とのあだ名を付けている[13]。 男はつらいよ『男はつらいよシリーズ』の源公役は「大阪弁のしゃべれる男の子」というオーディションで決まったが、その時は会場入りが2時間30分遅れたという[14]。渥美清を寅次郎と源公の間柄と同じ様に兄貴分として慕っていた。結婚式を挙げる費用がなかった事が渥美の耳に入り、『男はつらいよ 寅次郎夢枕』(第10作、1972年)撮影後の午後、撮影所にあった紋付き袴・花嫁衣装を着せてささやかながら撮影所で結婚式を挙げ、その時のカメラマンは篠山紀信であった[15][16]。『男はつらいよ 寅次郎恋歌』(第8作、1971年)撮影時は交通事故で入院して作品に出られなかった際、渥美が病院まで見舞いに訪れ[3]、看護婦(看護師)たちに「蛾次郎をよろしく」って深く一礼してすっと帰って行ったという[要出典]。 渥美清の死は、自宅にいるとテレビ局のプロデューサーから電話がかかってきて知る。通夜も葬儀も終えたと聞き、「ウソやろ!?」と思ったのが最初で、夕方のニュース番組に生出演してから局のロビーで囲み取材を受けている間まで実感がなく、ひとりになってボロッと涙が溢れ、「1年以上『男はつらいよ』の音楽を聴くと涙が止まらなかった」と語る[要出典]。『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(第48作、1995年)では、渥美が着た服を衣装さんから貰い着ている。「男はつらいよ」シリーズでのロケの際には自らカレーを作って振る舞っており、渥美も好んで食べていたがいつも半分しか食べなかったという。しかし渥美の最終作では全てを食べ終えて「美味しかったよ。いつもありがとう。ご苦労さん」それが佐藤の聞いた渥美の生前最後の言葉となったという[11]。佐藤が演じる寺男の源公はほとんどが端役であるが、映画の前身となったテレビドラマ版では寅次郎の父親違いの弟である雄二郎を演じ、最終回では寅次郎の最期をさくら達に語る重要な役を果たしている。 出演テレビドラマ
映画
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舞台
人形劇
バラエティ
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脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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