佐藤観次郎
佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - 1970年3月3日[2])は、日本の政治家、ジャーナリスト。戦前には『中央公論』編集長や中京新聞社取締役を務めた。戦後には日本社会党に所属して衆議院議員を8期19年間務めた。愛称は「サトカン」[3][4]。 来歴愛知県海部郡蟹江町舟入[4]に生まれる[2][3]。兼松[1]、あるいは兼次郎の二男[5]。1916年(大正5年)に蟹江尋常高等小学校(現・蟹江町立蟹江小学校)を卒業[4]。旧制海城中学校を経て、1928年(昭和3年)に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業する[1][2]。1930年(昭和5年)に中央公論社に入社し、1933年(昭和8年)には『中央公論』編集長となった[2]。検閲が激しく厳しい時代であったが、1936年(昭和11年)まで編集長を務めた。1937年(昭和12年)には中京新聞社取締役編集総務となった[2]。太平洋戦争中には主計大尉としてフィリピンに進駐。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に愛知県第3区から出馬して初当選。日本社会党に所属した。1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で落選するも、1952年(昭和27年)第25回衆議院議員総選挙で返り咲き、以後は1967年(昭和42年)第31回衆議院議員総選挙まで連続当選を果たす。衆議院文教委員長などを歴任した。中日本自動車短期大学の学長も務めている。 1970年(昭和45年)3月3日、急性肺炎により死去[4]。68歳没。死後に従三位勲一等瑞宝章を贈られた[4]。4月3日には蟹江町立蟹江中学校体育館で蟹江町の町葬が行われ、桑原幹根愛知県知事、橋本繁蔵愛知県議会議長、愛知県第3区選出の衆議院議員などが列席した[4]。 人物永井荷風・吉川英治・谷崎潤一郎ら著名な作家と親交があった。谷崎の『私の貧乏物語』(中央公論 1935年 昭和10年1月号)に佐藤の名が出てくる。この時、佐藤は編集長であったが谷崎は「原稿の催促に来た本誌の記者佐藤観次郎君」と表記している。吉川は佐藤に勧められて蟹江町を何度も訪れて、水郷地帯の様子を「東海の潮来」と呼んでおり、日光川の川べりには句碑が建てられている[6]。佐藤は釣り好きとしても知られ、著書には『つり自慢』(つり人社、1968年)などがあるほか、「地方遊説や各地の応援には、つとめて釣り道具を持参する。演説や応援弁士は夜の仕事。釣りの時間は朝からお昼まで」などの名言を残している[3]。 晩年には自身と同じく釣り好きの国会議員に声をかけ、超党派の「国会つりの会」を結成している[3]。自身の蔵書など約8,000冊を故郷の蟹江町に寄贈しており、蟹江町は佐藤からの寄贈書を基にして1966年(昭和41年)に蟹江町立図書館を開館させた[7]。佐藤からの依頼により、川端康成が「佐藤観文庫」の揮毫を行っている[7]。 趣味はスポーツ[1]、相撲、野球、園芸[5]。宗教は真宗[1][5]。住所は愛知県海部郡蟹江町舟入[5]。 家族
政治家経歴
主な著書
脚注
参考文献
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