六羽川合戦
六羽川合戦(ろっぱがわかっせん)は、天正7年(1579年)7月4日に陸奥国六羽川(現・青森県平川市)において、大浦氏と安東氏の命を受けた比山氏ら連合軍との間に起きた戦い。 戦いの背景南部氏からの独立を目指す大浦為信(後の津軽為信)は、大光寺城・石川城・浪岡城など南部氏や浪岡氏側の国人の諸城を攻略した。 それにより、滝本重行や浪岡一族などの多くの諸将が、主家の南部氏や出羽国の安東氏などのもとに逃れた。また、浪岡氏を滅ぼしたことにより、安東氏との関係も悪化した。 戦いの経過天正7年(1579年)7月4日、安東氏の命を受け、比山六郎・七郎兄弟が津軽へと侵攻した。これに大浦為信から城を追われた滝本重行、北畠(浪岡)顕則らも参陣、浅利氏や大鰐、碇ヶ関方面の土民たちの協力もあり、軍勢は1千に膨れ上がった。 まず連合軍は、滝本重行の仇敵・乳井建清が城主を務めていた乳井城・乳井茶臼館・乳井古館に攻め入り、建清が留守であったこともあり3城は瞬く間に落城した。続いて沖館城に攻め入るも城主・阿部兵庫介の奮戦により、撤退した。 その後、六羽川の畔(現・青森県平川市)において大浦軍と激突した。連合軍は占領した乳井茶臼館、大浦軍は大坊・岩館に本陣を置いた。戦いは夕暮れまで続き、大浦軍は次第に追い詰められ、為信本陣の旗本もほとんどが討ち死にした。すると、本陣にいた田中太郎五郎が為信の身代わりとなって突撃、為信を討ち取ったと思い込み油断した連合軍は隙をつかれ、大将の比山六郎が討ち死にした。これによって、連合軍は総崩れとなって敗走し、大館に撤退した。 その後の情勢その後、津軽には南部氏当主・南部信直の弟・石川政信らが入ったともされるが、定かではない。大浦氏は後に津軽を征服し、外ヶ浜(現・青森県青森市)と糠部の一部(現・青森県平内町)を手中に収めた。 為信の身代わりとなった田中太郎五郎については、その後、嫡子田中宗右衛門に100石を加増し、津軽の忠臣の家として遇した。昭和34年(1959年)には、子孫にあたる元外交官・佐藤尚武らによって「津軽之忠臣」の碑が建立され、かつてこの地で戦があったことを物語っている。 参考文献
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