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北京政変 (1976年)

北京政変(1976.10.7)
華国鋒(1978年撮影)
日時1976年10月6日 - 7日
場所北京
原因毛沢東中国共産党主席の死去
目的四人組逮捕
手段毛沢東思想の継承
結果華国鋒体制の成立
参加集団
華国鋒
汪東興

北京政変(ペキンせいへん)は、1976年10月6日中華人民共和国北京市で起こった四人組の一斉逮捕、およびそれにともなう政変である[1]。翌7日のうちに華国鋒体制が成立した[1]。別名、懐仁堂事変(かいにんどうじへん)。

概要

1976年7月6日中国人民解放軍の「建軍の父」と呼ばれた朱徳が死去し、7月28日には渤海湾沿岸一帯にマグニチュード7.8の大地震が発生して唐山市を中心に死者65万人の大災害に見舞われ、人びとの間に動揺が広がった[1][2]華国鋒らが唐山地震の救援に注力しているさなかの9月9日1966年以来10年にわたって文化大革命を主導してきた毛沢東が死去した[1][2]中国共産党主席であった毛沢東の死は中国内外にさまざまな感懐の念を呼び起こさせたが、中共の権力中枢にあってはすぐさま激しい権力闘争が展開された[1]。1976年10月6日、「既定方針どおり事を運ぶ」という毛沢東の「遺訓」を根拠に権力継承権を主張していた江青張春橋姚文元王洪文のいわゆる「四人組(文革四人組)」が一斉に逮捕された[1][2][注釈 1]。華国鋒はこの日、葉剣英李先念中国共産党長老グループの支持を取り付け、毛沢東の警護に長年にわたって従事してきた汪東興が指揮する中央警護部隊に動員を要請して逮捕におよんだものであった[2]。6日夜、「四人組」のうちの王洪文、張春橋、姚文元の3人は、中南海内の懐仁堂に呼び出され、逮捕された[3][注釈 2]。毛沢東の甥の毛遠新、江青らは自宅で逮捕された[3][5]。華国鋒らは、わずか1時間ほどで一挙に「四人組」を権力の座から引きずり降ろしたこととなる[3]

北京政変は、「四人組」ら文革左派(上海グループ)と華国鋒・汪東興ら文革右派(非上海グループ)との権力継承をめぐる宮廷革命的性格の強い予防クーデタであった[1]。政変に先立つ10月2日には、毛沢東が華国鋒にあてたと伝えられる「あなたがやれば私は安心だ」という「遺言」をめぐって華国鋒と「四人組」のあいだで激論が戦わされていた[2]。のちに発表された「四人組訴状」によれば、江青らは上海の民兵の武装を強化してクーデタを準備していたという[2]。機先を制して「四人組」を打倒した華国鋒は、出口のみえない文革スタイルの政治に対する民衆の不満を背景に一挙に権力を掌握し、10月7日、中国共産党主席の地位に就いた[1][2][注釈 3]

華国鋒は故毛沢東の支持を受けた正統な後継者としてみずからを位置づけ、毛が提唱した「プロレタリア独裁下の継続革命」の理論を全面的に肯定した[7]。彼は、革命精神の高揚を通じた社会主義路線を堅持して、生産力の急速な発展による現代化(第二次大躍進)を進展させることを主張した[7]。そして、いわゆる「四人組」が生産力発展の側面を無視して生産を破壊したことをもって「極右路線」と断罪し、その打倒は「プロレタリア文化大革命のもう一つの偉大な勝利」であったと喧伝した[7]。その一方で、実務派とみなされた鄧小平は革命精神をないがしろにしているとして、鄧に対する攻撃をひきつづき展開した[7]。華国鋒は11月早々、毛の忠実な後継たるべく北京市天安門広場毛主席紀念堂を着工している[注釈 4]

「あなたがやれば私は安心だ」という毛沢東の遺言を誇示した華国鋒は、しかし、それゆえに中国における非毛沢東化の進展とともに政治的将来が閉ざされていった[1]。「四人組」批判運動が広がっていくなかで文化大革命そのものへの批判が顕在化し、党内外に鄧小平の復権と1976年4月5日四五天安門事件に対する再検討を求める声が広がっていった[7][注釈 5]1977年7月、鄧小平は中共第10期3中全会において副主席として再復活し、同時に「四人組」は党籍と職務を剥奪された[8]。同年8月の中国共産党第11次全国代表大会中国語版では、文化大革命の終結が宣言され、中国共産党の新規約に「4つの現代化」が明記された[7][8][注釈 6]

なお、「四人組」に対する裁判は1980年11月20日から1981年1月25日まで開かれた[9]。政治裁判であるにもかかわらず、法廷のようすは世紀のショーとして世界中のテレビで放映され、江青の抵抗、王洪文・姚文元の「自己批判」、張春橋の完全黙秘などがセンセーショナルな話題となった[9][注釈 7]

脚注

注釈

  1. ^ 10月4日、「光明日報」に梁効(「四人組」のペンネーム)論文「永遠に毛主席の既定方針に従って実践しよう」が掲載された[3]
  2. ^ 懐仁堂は、1900年義和団の乱のさいに八カ国連合軍に焼かれて再建されたという歴史的建造物である[4]
  3. ^ 1976年1月8日、毛沢東の信任をつなぎとめていた周恩来総理が死去し、2月初旬、一般には無名に近かった華国鋒の国務院総理代行への就任が発表された[6]。同年4月5日、鄧小平らを標的とした「走資派」批判に対する大衆的抗議として四五天安門事件が起こった[6]。この事件は、北京の大衆が墓参の日である4月4日清明にちなんで天安門広場の人民英雄紀念碑に次々に花をたむけ、朗読して周恩来の死を悼むとともに毛沢東政治への不信を表明したもので[6]、数十万の群衆のなかには、いわゆる「四人組」を公然と批判する者もいた[2]。毛沢東を始皇帝になぞらえ、人民が真に国の主体となるべきことを訴える人びともおり、そのなかにはかつて紅衛兵として造反した経験をもつ者もあった[2]。こうした動きに危機感をいだき、大衆の動きを規制しようとする官憲・民兵組織と群衆との間で流血の事態に発展した[6]。鄧小平は、この事件の責任をとらされて再度失脚した[6]
  4. ^ 紀念堂入り口の「毛主席紀念堂」の金文字の彫刻は華国鋒の揮毫による。
  5. ^ 四五天安門事件の後、「四人組」は彼らが掌握する言論機関を総動員して「走資派」批判を展開し、プロレタリア文化大革命の理念を強調していた[2]
  6. ^ 華国鋒は、中国共産党第11次全国代表大会において「第一次文化大革命の終結」を宣言し、20世紀内にあらゆる力を団結して「偉大な社会主義強国」を建設することを呼びかけた[7]。文化大革命については「成果が七分で、誤りが三分」という毛沢東の評価を踏襲し、三分の誤りは四人組の「極右反革命修正主義路線」に由来すると規定し、今後も引き続き文革を行う必要があると総括した[7]。翌1978年前半の華国鋒と鄧小平をまじえた会議では、鄧がもっぱら「4つの現代化」を強調したのに対し、華は依然として「毛沢東思想」「階級闘争」そして文革路線の「工業は大慶に学び、農業は大塞に学ぼう」のスローガンに依拠する二元的状況がみられた[8]。「4つの現代化」が統一的な国家目標として最終的に定着したのは、1978年12月の中共第11期3中全会(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)においてであった[8]
  7. ^ 「四人組」判決と同時に、陳伯達黄永勝呉法憲李作鵬邱会作江騰蛟の6人も「林彪反革命集団」として懲役17年ないし18年の重刑が宣告された[9]

出典

参考文献

  • 天児慧『中華人民共和国史 新版』岩波書店岩波新書〉、2013年8月。ISBN 978-4004314417 
  • 天児慧、加藤千洋『中国大陸をゆく―近代化の素顔』岩波書店〈岩波新書〉、1990年9月。ISBN 978-4004301370 
  • 稲垣清『中南海――知られざる中国の中枢』岩波書店〈岩波新書〉、2015年4月。ISBN 978-4004315407 
  • 小島晋治、丸山松幸『中国近現代史』岩波書店岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8 
    • 小島晋治「VIII 文化大革命から開放体制へ」『中国近現代史』岩波書店、1986年。ISBN 4-00-420336-8 
  • 中嶋嶺雄 編『中国現代史[新版]』有斐閣〈有斐閣選書〉、1996年3月。ISBN 4-641-18248-5 

関連項目

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