北垣国道
北垣 国道(きたがき くにみち、1836年9月17日(天保7年8月7日) - 1916年(大正5年)1月16日)は、幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家。幼名は捨蔵。通称は晋太郎。号は静屋。 高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した。 略歴
栄典
功績と評価琵琶湖疏水北垣が京都府知事に着任した頃の京都の街は、東京奠都などにより東京や大阪などへの人口流出、産業衰退により、都市としての活力が失われつつあった。北垣は、京都の勧業政策として琵琶湖から京都までの疏水建設によって、灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した。 疏水の設計は工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業した京都府技師の田辺朔郎が進め、4年8ヶ月の大工事で完成させた。工期途中で視察のためアメリカ合衆国を訪れた田辺は、当初の計画になかった水力発電を取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設し、1895年には京都・伏見間で日本初となる路面電車(京都電気鉄道)の営業運転が始まることとなった。 琵琶湖疏水建設は、国や京都府の財政支出のみならず、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税をも財源とし、府民と一体となって取り組んだ。さらに、京都商工会議所などの創設などに尽力し、近代産業都市としての京都建設に大いに貢献した。 田辺と二人三脚で挑んだ琵琶湖疏水工事の物語が大阪書籍の小学校社会科教科書に掲載されていた。現在の京都の政財界において、歴代京都府知事の中で北垣を高く評価する人々が多い。 第三高等中学校関連当時大阪市にあった第三高等中学校が京都市内の吉田山に移ったが、その際の新しい校舎の開校式に京都府知事として出席した[17]。この学校は、1894年に第三高等学校と改称した[17]。吉田山の第三高等学校は、現在の京都大学にあたる[要出典]。 剣術の振興前任の京都府知事槇村正直は府令をもって剣術を禁止したが、北垣は知事に就任するや椹木町に「体育場」と称する大道場を設立して剣術を奨励した。1895年(明治28年)、京都に大日本武徳会が設立され、北垣は大日本武徳会の役員を務めた。 高野佐三郎は北垣国道の剣術について、「北垣(国道)男爵は山岡流であるが、実に柔らかでした。あれが本当の山岡流です。一般のゴチゝしたのが山岡流とは言えません」と称えている。 北海道庁長官時代
著書
家族妻のタネは子爵河田春雄の養叔母[18]。長男の確は同志社英学校から慶応中学に転校し、京都市立工芸美術学校を出て日本画家となり、北垣静處と号す[19]。大礼使典儀官も務めた[20]。その長男の北垣晋一も静林と号した画家[20]。 次男の守は京都府京都商業学校卒業後、近衛歩兵第一連隊第5中隊に入隊、除隊後、見習士官教育訓練を受けたが、小樽銀行の行員となり、農商務省在外研修員として外遊後、陸軍副隊長として日露戦争に出陣したのち、33歳でロンドンに留学して語学学校に通い、父親の没後、1917年に目黒に児童教養研究所を設立[19]。その妻シマは北海道銀行頭取・添田弼の長女[18]。 三男の旭は1905年にアナポリスの海軍兵学校 (アメリカ合衆国)に入学[21]、海軍軍人から漁業会社社長となり、四男の元は札幌農学校で学び一時、守の研究所を手伝った[19]。長女は田辺朔郎に嫁ぎ、三女(養女)は下村孝太郎に嫁いだ[19][18]。 脚注
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