北陸道北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つで、本州の日本海側の中部の行政区分であった。また、古代から近世にかけて、同所を通る幹線道路を指す名称であった。 「北陸道」の呼称旧国名で言うところの、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後および佐渡を指す。「北陸道」の古訓は「クヌカノミチ」で「陸の道」の意である(『延喜式』の民部省関連部分)。同じ日本海側の山陰道と地域間交流をしており、遺跡や遺物にその痕跡が残っている。 行政区画としての北陸道畿内から北に伸びて、本州の日本海側の北東部を総めた行政区画であった。
変遷北陸道令制国の変遷
道(みち)としての北陸道古代の北陸地方が「越国」という地方王国を形成した歴史や、畿内から北への路線である事から、「越路」「北国街道」「北国路」「北陸街道」とも呼ばれた。 律令時代律令時代の道路としての北陸道は、畿内と日本海側中部を結ぶ路線であった。令制国の国府を結ぶ官道であり、小路とされた。奈良・京都から琵琶湖西岸を通り越前へと抜けるルート(西近江路参照)であった。7世紀半ばに、新潟市街地の一角である沼垂の辺りに渟足柵が築かれると、渟足柵が北陸道の北限となった。後に延伸されて、鼠ヶ関が北限となった。 近江から越前にかけては経路に変遷があり、当初は菅谷峠を越える道(現国道305号)であったと考えられているが記録が残っておらず、この道は「まぼろしの北陸道」と称される。記録に残るのは山中峠を越えるルートからだが天長7年(830年)に距離の短い木ノ芽峠を越えるルートに変わった。中世に入るとより距離の短い栃ノ木峠(現国道365号)越えに切り替わり、以降はこの道が本道とされた。 古代北陸道10世紀初頭になると、造船、操船技術が発達を見たことから、物資運搬の難所であった山岳区間を避け、琵琶湖や敦賀から日本海沿岸に向けた航路も併用されるようになった。
江戸時代江戸時代になると、畿内から北東に琵琶湖東岸の中山道(律令時代の東山道)を進んで、鳥居本(現在の彦根市鳥居本)または番場(米原)で分岐し、北上して日本海側を縦貫し、越後国へ至った。狭義の北国街道は、中山道・追分宿から直江津までの道路を指す事もあり、これは善光寺街道とも呼ばれ、善光寺への参詣のために整備された。 幕末の1859年に、新潟が開港五港の1つになると、新潟が北陸地方と東北地方を結ぶ交通網の接点として盛え始めた。 明治時代以後明治になると、道路・鉄道といった陸路の整備が進んだために、北陸道は、再び日本海沿岸の交通網の主要ルートとなった。 現在では、国道8号や北陸自動車道が、律令時代の北陸道を継承している。国道8号は、新潟(萬代橋)から米原を経て京都に至る路線となっている。なお、鉄道の北陸本線は、新潟駅を東端とせず、直江津駅を東端とした。これは、高崎から直江津にかけての中山道・北国街道沿いに、信越本線が優先的に建設されたためである。 第2次大戦後の1972年に、新潟県出身の田中角栄が政権に就くと、「太平洋ベルト地帯との格差の是正」を掲げたために、高速道路の北陸自動車道も建設された。これは国道8号と同じく、ほぼ古来の北陸道に沿っている。このため、現在の「北陸道」は、律令時代の北陸道に沿った道路を指す事が通例であるが、狭義では北陸自動車道の略称として用いられる事もある。 一方、北陸新幹線は計画および運行上の起点となる東京駅から、路線上の起点の高崎駅を経由し、上越妙高駅付近までは中山道・北国街道に沿う形となっている。また、1997年の長野駅までの部分開業の時点では、「長野(行)新幹線」の通称が用いられ、2015年の長野駅 - 金沢駅間の開業時から正式名称での案内が開始されている。なお北陸新幹線自体は、計画上、大阪府大阪市を終点とすることとなっているが、敦賀以西のルートは議論の途上にある(議論の詳細は「北陸新幹線敦賀以西のルート選定」を参照)。また、上越妙高駅 - 新潟駅間は羽越新幹線の一部として計画に盛り込まれており、うち、長岡駅 - 新潟駅間は1982年に上越新幹線として完成している。 関連項目 |