千鳥 (千鳥型水雷艇)
千鳥(ちどり)は、日本海軍の水雷艇。千鳥型の1番艇である。ロンドン軍縮条約の影響によりミニ駆逐艦ともいえるほど重武装の艦艇であったが、同型艇「友鶴」が演習中転覆するという友鶴事件を引き起こし、改善工事を実施した。艇名としては隼型水雷艇の4番艇「千鳥」に続いて2代目。 艇歴![]() 1931年(昭和6年)に舞鶴工作部で起工。600トンというサイズに過大な武装が施されたため、公試排水量で計画より15%もオーバーし復原性能が不足していた。そのためバラスト40トンを搭載したがそれでも転舵の際に大傾斜を生じ、舷側にバルジを装着することで復原性能を改善して1933年(昭和8年)11月に竣工した。佐世保鎮守府籍に編入され予備水雷艇となる。1934年(昭和9年)1月、同型艇「真鶴」と第21水雷隊を編成。 1934年3月に3番艇「友鶴」が荒天のため転覆、殉職者72名を含む総数100名の犠牲者を出すという事故(友鶴事件)が起こった。当日の千鳥は友鶴とともに夜襲訓練に従事し、訓練打ち切りを受けて「龍田」「千鳥」「友鶴」の順に佐世保へ向かった。友鶴が続航していないことに気づいた千鳥は龍田に連絡するとともに捜索に着手したが、龍田より帰投を命じられ、捜索を断念し帰投した。 調査の結果、千鳥型を含む藤本喜久雄造船少将が設計していた艦は、復原性の不足が指摘され、すでに完成していた3隻を含めた完成艦は改善工事が行われ、4番艇「初雁」は建造中だったため性能改善を施して竣工している。 主な工事内容は以下の通り。
これらの工事により復原性能は改善されたが兵装は大幅に減少し排水量は公試状態で772トンにまで増加、速力は28ノットまで低下した。 1935年(昭和10年)に第四艦隊事件が起き千鳥型も1936年(昭和11年)8月から11月にかけて改善工事が行われた。詳細は明らかでないが他艦ほど大きな問題にはならなかったようである。ただ速力は更に低下し27ノットほどだったと言われる[2]。 1936年(昭和11年)12月に第21水雷隊を同型艇4隻で編成し中国方面へ進出、上陸支援や封鎖作戦などに従事した。太平洋戦争開戦後は緒戦は南方の攻略作戦を支援、その後は船団護衛などに従事した。 1943年1月14日、潮岬沖でアメリカ潜水艦「パイク」の潜望鏡を発見し、爆雷攻撃を行った[3]。 大戦終盤まで活躍したが、1944年(昭和19年)12月22日に御前崎沖で米潜「タイルフィッシュ」の雷撃を受け沈没した。 歴代艇長
脚注
参考文献
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