友納武人
友納 武人(とものう たけと、1914年(大正3年)9月12日 - 1999年(平成11年)11月15日[1])は、昭和期の厚生官僚、政治家。元千葉県知事、衆議院議員。広島県広島市出身[1]。 来歴・人物小学校教諭の友納友次郎の四男として生まれる[2]。 府立六中・府立高等学校 (旧制)を卒業[2]。 東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等文官試験に合格し、卒業後の1937年4月に内務省に入省[2]。 埼玉県総務部で勤務の後、兵役で大日本帝国陸軍習志野騎兵第15連隊に見習士官として入営し、ノモンハン事件にも参加している[2][3]。 陸軍中尉で軍役解除後、滋賀県学務課長、岐阜県庶務課長を経て厚生省保険局健康保険課勤務となり、1947年2月に同課課長[3]。保険課長時代には戦後の健康保険再建に尽力して支払基金制度を設置し社会保険を守ったことから、現在の健康保険制度設立の親ともいわれる[2][4]。 柴田等千葉県知事に招かれて1951年に同県総務部長となり、同年9月に急死した鈴木斗人の後任として副知事に就任[2][3]。しかし、3期目を迎えた柴田とは確執が生じるようになり、また社会保険をライフワークにしたい思いもあったことから、1959年3月に辞任し、公営企業金融公庫監事や社会保険診療報酬支払基金常務理事などを務めた[2][3]。 1963年1月にふたたび千葉県に招かれ、柴田を破って千葉県知事に就任した加納久朗のもとで副知事に就任した[2][3]。翌月、前年11月の知事就任以来精力的に公務を行っていた加納が就任僅か4ヶ月にして急死。友納はその後任を決める知事選挙に出馬して当選し、以降1975年まで3選を果たした[2][3]。 副知事時代から東京湾を大規模に埋め立てて京葉工業地帯の礎を築き当時は農業県だった千葉県民の大きな雇用を生み出したことや[1][2][4][5][6]、東京ディズニーリゾートを含む土地開発により千葉県の発展をもたらしたことから、「開発大明神」の異名をとり[注釈 1]、「千葉県中興の祖」としての評価が定着している[1][8][9]。 その一方で、東京湾埋め立てをめぐる三井不動産社長・江戸英雄との繋がりを始めとした土建業との密接な関係があり[注釈 2][12]、環境破壊に伴う川鉄公害訴訟などの住民からの反発も招いたことから、房総半島の破壊をもたらした人物という批判も根強い[1][13]。 千葉県知事就任直後から新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設問題が浮上し(後に成田空港問題)、新東京国際空港建設位置変更(現在の成田国際空港がある三里塚地区)にも関与した[14][15]。土地収用法に基づき、1971年には三里塚闘争のヤマ場となった成田空港予定地の代執行で知事権限を発動した[1][16]。衆議院議員に転身後の1984年11月27日には、三里塚芝山連合空港反対同盟を支援する中核派に事務所を放火されている[17]。 知事退任後の1976年、旧千葉4区から総選挙に立候補して当選[1]、途中1回の落選を経て4期務めた[2]。福田派→安倍派[1]に属し、1990年に引退[1]。 エピソード
親族国定教科書編纂官などを務めた教育家の友納友次郎は父[2][3]。 栄典著書
脚注注釈
出典
参考文献
|