古代哲学
本項では「古代哲学」を列挙する。西洋哲学では、ローマ帝国におけるキリスト教の普及がヘレニズム哲学の終わりを告げ、中世哲学の開始を導く。一方東洋哲学では、アラブ帝国を通じてのイスラームの普及が古代ペルシア哲学の終わりを告げ初期イスラーム哲学の開始を導く。本稿において述べられる時代・地域はちょうどカール・ヤスパースが述べる枢軸時代に当たる。当該項目も参照。 古代ギリシア哲学→詳細は「ギリシア哲学」を参照
女神アテナ(ローマ神話のミネルウァ)のフクロウが哲学、philia(愛)、sophia(知)の学の誕生を象徴している。古代ギリシア哲学(希: φιλοσοφία)は、イデオロギー的な連続体をなしているイスラエル、エジプト、メソポタミア、ペルシアといった先行する古代文明と結びついている。 ギリシア哲学の開始が中国・インド哲学の開始とほぼ同時期だったことは枢軸時代という術語であらわされている。 小アジア東端のエーゲ海沿岸部にギリシア人が移住したことによって古代ギリシア哲学が始まった。そこではソクラテス以前の哲学の一つイオニア哲学が始まった。彼らはホメロスの叙事詩の神話的な世界観に対して自然哲学的な世界の説明を対置した。例えば、ミレトスのタレスは紀元前585年に日食を予言している。 ペルシア戦争で勝利したというアテナイの自己主張とアテナイの、アッティカ同盟内での専制によってアテナイは紀元前5世紀のギリシアの文化と広範な哲学的発展の中心地になった。古代の中心に影響力を及ぼしたローマ・ローマ帝国において宇宙の秩序、人間の本性、そして正しい生き方について考えることが前面に押し出されてきた。ここで新しい形の大きな問題が立ち上がってきた。全てのものはどこからやってきたのか?徳とは何か?何が最初の原因(アルケー)の始まりなのか?真理(アレテイア)とは何か?何が善い物か、何が幸福か、…等々。 アテナイはソフィストたちが集まる場所となり、ソクラテスの住んでいる街でもあった。ソクラテスの影響はプラトンの学派を通じて哲学史の全時代に存続した。プラトンは自身の学派、アカデミア学派を創設し、同様にアリストテレスも逍遥学派を形成した。それらに加えてその後すぐにアテナイにエピクロス派とストア派が現れた。これら4つの学派に対して、ストア派の薫陶を受けた哲人王マルクス・アウレリウス・アントニヌスは176年にアテナイに滞在した際に4学派の講座を創設することで敬意を表している。 哲学者ソクラテス以前の哲学者
古典ギリシア哲学者
ヘレニズム哲学
ヘレニズム諸学派初期ローマ・キリスト教哲学ローマ帝国時代の哲学者
古代ペルシア哲学→詳細は「ペルシア哲学」を参照
See also: 二元論, 実体二元論, 性質二元論, 記述二元論 古代にはインドのヴェーダとイランのアヴェスターとは関係があるが、社会の中での人間の位置に関する密接な関係と宇宙における人間の役割に対する考え方の点でインド―ペルシア哲学の二つの主な派閥は根本的に異なる。キュロスの円筒印章として理解されるキュロス大王による人権の最初の憲章はザラスシュトラが述べ、ペルシア史におけるアケメネス朝の時代のゾロアスター教によって発展させられた問題を反映したものとしばしばみなされる[1][2]。 学派哲学と帝国文学ペルシア哲学の継続西洋文学・文化ゾロアスター教やマニ教の考えや挑戦と結びつけて考えられるといった古代・中世のヨーロッパ文学に対する顕著な影響に加えて、近年の西洋文学においてペルシア哲学が現れ、様々な方法で扱われている。二つの著名な例:
古代インド哲学→詳細は「インド哲学」を参照
古代インド哲学は二つの古代の学派、つまり沙門とヴェーダの融合である。 ヴェーダ哲学インド哲学は「ヴェーダ」とともに始まる。ヴェーダでは問題は自然法則、宇宙の起源、そして問いを発する人間のいる場所と関連付けられる。有名なリグ・ヴェーダの「創造の讃歌」で詩人は以下のように詠う: 「あらゆる創造が起源をもつ場所で、 ひー、それを作り上げるのか作り上げないのか、 ひー、いと高き天より誰がそれを見渡すのか、 彼は知っている、あるいは彼でさえ知らないのか」 ヴェーダの考えでは、創造は太古の存在(「プルシャ」)の自覚として描かれる。これによって経験的現象の多様性と万物の起源に通底する「一つの存在」への問いが起こる。宇宙秩序は「ルタ」と呼ばれ物事を引き起こす法則は「カルマ」と呼ばれる。自然(「プラークリティ」)は三つの形(「サットヴァ」、「ラジャス」、「タマス」)をとる。 沙門哲学ジャイナ教と仏教は沙門哲学と連続的な存在である。沙門は苦しみに満ちたサンサーラという世界観を作り上げ、克己と苦行を奨励した。彼らはアヒンサー、カルマ、ジナーナ(知識)、サンサーラ、ヴィモークシャといった哲学的概念を力説した。 古典インド哲学古典時代には、こういった問いは六つの学派によって体系化された。そのうちのいくつかの問いは:
六派哲学: インド哲学の他の学派: 仏教
チャールヴァーカチャールヴァーカ (梵: चार्वाक)またはローカーヤタは漢語では順世派と言い、ヒンドゥー哲学の一学派である。様々な形の哲学的懐疑主義と宗教的無関心を当然視する。ローカーヤタの著者であるこの派の創設者の名をとってチャールヴァーカと呼ばれるようになった。 ヒンドゥー哲学の概要で、チャールヴァーカは「信義のない」(ナースティカな)思想であると分類される。仏教及びジャイナ教もナースティカだとされる。チャールヴァーカは唯物論的・無神論的学派であると特徴づけられる。インド哲学においてこの学派は正統派である六派哲学に数えられていないが、ヒンドゥー教において唯物論的運動があった証拠として注目に値する。 チャールヴァーカ派は様々な無神論的・唯物論的・自然主義[要曖昧さ回避]的信念を持っていた。 チャールヴァーカでは死後の世界、死後の生などないと信じられていた。 「要素それ自体から前方に飛び出す しっかりした知識が破壊される 知識が破壊されると— 死後にいかなる知性も残らない。」 自然主義 チャールヴァーカではある種の自然主義が信じられていて、あらゆる物事はひとりでに起こり、(神や超越的存在によってではなく)ひとりでに生まれてくるとされた。 「火は暑く、水は冷たい、 清々しくひんやりとした朝の涼風 何によってこうした個性が生じるのか? 彼らはそれ自体の本性に従ってそうなのだ。」 官能的な耽溺同時代の多くのインド哲学と違い、チャールヴァーカでは官能的な耽溺は決して悪い物ではないと考えられ、むしろそれは追い求められるべき唯一の楽しみであるとされた。 「人に起こってくる快楽 感覚されるものに触れることによって それがうち捨てられるのは痛み― 愚か者の考えのような―と一緒に来る場合だけ。 米粒、最高級の白い粒が豊かで 自分の真の関心を追い求める人、 それらを投げ捨てて なぜなら空やほこりを覆うため? 命が続く一方で人を幸せに生きさせよう 彼にバターを食べさせるが彼は借金をする ひとたび肉体が塵となれば どうして再びよみがえることができようか? 宗教は人が発見したチャールヴァーカでは宗教は人が発見して仕立て上げたものだと考え、神の権威を持たなかった。 「ヴェーダの三人の著者は道化師、悪党、悪魔である。 賢者、ジャルファリ、トゥルファリ、その他のよく知られている式全て、 アーシュヴァメーダで命令される女王のための猥褻な儀式全て これらは道化師が発明したもので、神官に対してなされるさまざまなこと全て、 生物が食事を行うことは同様に夜をうろつく悪魔が命令した。」 古代インド哲学者
古代中国哲学→詳細は「中国哲学」を参照
中国哲学は日本、朝鮮、そしてベトナムを含む漢字文化圏で支配的な哲学的思想である。 学派諸子百家→詳細は「諸子百家」を参照
諸子百家とは、中国の春秋時代後半〜戦国時代戦国時代に栄えた、様々な学派に分かれる思想家およびその思想を指す言葉である。 この時代は諸国を旅をする学者の存在によって特徴づけられる。彼らはしばしば各国の為政者に召し抱えられ、内政・外交に関して助言を授け、時には思想や制度の優劣にめぐって弁論を交えた。『漢書』にて初めて諸思想家を指して「諸子百家」という語が用いられ、大きく分けた以下の10の主な学派(もしくは集団)に思想の特徴ごとそれぞれ帰納した。
中国の帝国時代初期統一秦王朝の創設者は法家思想を公式哲学として実施し、焚書坑儒を行った。漢王朝が道家を採用し、さらに後には儒家を公式に教義として採択するまでは法家が影響力を保った。道家や儒家は仏教の到来までは中国史層の中でも決定的な力となった。 儒家は漢王朝の頃に特に強力であった。その最大の思想家は董仲舒で、儒家思想を董仲舒の学派の思想や五行説と統合した。また、彼は今文経学を普及させた。それは孔子を神で、中国の精神的な支配者であり、予知能力を持っていて普遍的平和へ向けて世界の革命を開始すると考えた。対照的に古文経学が存在し、彼らはずっと信頼性の高い古代の言葉で書かれた孔子の著作の使用を唱道した。とりわけ、彼らは孔子を神同然の人物とみなす臆説を論駁し、孔子を偉大な賢者ではあるが死すべき人間にすぎないと考えた。 3世紀から4世紀には「ネオタオイズム」とも呼ばれる「玄学」(神秘的なものの研究)が起こってくる。この運動の最も重要な哲学者は王弼、向秀、そして郭象である。この学派の主な問題は存在は非存在から生じるか否か(中国語で存在が「名」、非存在が「無名」)というものである。こういった、竹林の七賢のような道家哲学者に特有な性質は、「風流」、つまり自然や本能的な行動に身をゆだねようというある種のロマンチックな精神である。 仏教は紀元後1世紀ごろに中国に到来したが、南北朝時代、隋、唐の時代になって初めて大きな影響と中国社会からの認知を持つに至った。初めのうちは、仏教は道教の一教派と考えられ、道教の開祖老子についてインドに行って自身の哲学を仏陀に教えたのだという伝説も存在した。中国では大乗仏教はライヴァルの上座部仏教よりもずっと成功した。仏教の両派とともに中国土着の教派も5世紀に興隆した。二人の主に重要な僧哲学者として僧肇と道生がいる。しかしおそらくもっとも重要で独自の教派は禅宗で、日本に対しても大きな影響を与えた。 哲学者脚注
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