和光市駅
和光市駅(わこうしえき)は、埼玉県和光市本町にある、東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である[1][5]。 概要東武鉄道の東上本線と、東京メトロの有楽町線・副都心線が乗り入れる[1][5]。当駅 - 小竹向原駅の区間は、東京メトロ有楽町線と副都心線が線路を共有している。駅番号は、東武東上本線がTJ 11[1]、東京メトロ有楽町線がY 01、副都心線がF 01である[5]。 東武鉄道と東京メトロの共同使用駅で、東武鉄道の管轄駅である。東京メトロの駅としては最北端かつ最西端に位置し、東京の地下鉄全体でも最西端に位置し、唯一埼玉県内に所在する[6][注釈 1][注釈 2]。 東武川越駅管区傘下の駅長配置駅(東武川越駅副管区長兼務)。 歴史駅開業から終戦まで1914年(大正3年)5月1日に東上鉄道(現・東武東上本線)池袋駅 - 田面沢駅の開業から大幅に遅れて、1934年(昭和9年)2月1日に埼玉県新座郡新倉村ににいくら駅として開業したのが始まりである[1][7][注釈 3] 。開業直後の同年7月12日に新倉駅へ変更した[1][7][注釈 3]。 開業当時の当駅近隣の集落は白子宿など川越街道沿いに存在しており、駅は畑の中に開設された[8]。そのため、開業当初の一日平均の乗客は約94人で、1938年(昭和13年)には約160人であった[8]。 大日本帝国陸軍が白子村と新倉村の全面積の約20%に相当する土地について1937年(昭和12年)から買収を進め[8]、1941年(昭和16年)11月2日に陸軍予科士官学校が移転し[9]、1940年(昭和15年)に大倉財閥系で機関銃を製造していた「中央工業新倉工場」や「芝浦工作機械」「日興航空工業」など多くの軍需工場も進出し、駅の南側を中心として人口も増加した[8]。1945年(昭和20年)には、一日平均の乗客は開業時の20倍以上に増加した[8]。 戦後の状況第二次世界大戦で敗戦したことにより、1945年(昭和20年)8月に陸軍予科士官学校は解散され、軍需産業は壊滅状態となった[8]。しかし陸軍予科士官学校跡地や中央工業新倉工場跡地などが米軍に接収され、キャンプ・ドレイクとして米軍第一騎兵師団約4,000人が進駐し、1960年(昭和35年)3月には陸上自衛隊朝霞駐屯地が開設されたことから、戦後も軍需都市的な側面が残った[8]。 一方、本田技研工業が1952年(昭和27年)3月に「日興精機工業」の工場を買収して白子工場を開設し、1953年(昭和28年)7月に中央工業新倉工場跡地の一部を買収して大和工場を開設するなど民需工場の進出も相次ぎ、当駅周辺は新たな発展を遂げた[8]。 その後、米軍基地返還跡地に日本住宅公団が1965年(昭和40年)4月「西大和団地」を開設したのを皮切りに、「南大和団地」や「諏訪原団地」が開設された[8]。「米軍新倉倉庫」となっていた中央工業新倉工場跡地の一部が1971年(昭和46年)6月23日に返還され、翌1972年(昭和47年)にその土地を取得した伊藤忠商事が「シーアイハイツ和光」として再開発を行うなど、返還された米軍基地の跡地には多数の団地開発が進められた[8]。 また、1941年(昭和16年)7月20日に開院した白子陸軍病院が1945年(昭和20年)12月1日に厚生省に移管され、一般市民向けの医療施設「国立埼玉病院」として存続し[10]、米軍基地返還跡地の一部に1967年(昭和42年)3月に理化学研究所(理研)が大和研究所を開設する[11]など、公共系の施設も当駅周辺に立地した。 さらに、松ノ木島地区や丸山台地区などで土地区画整理事業が進められ、新興住宅地としても発展した[8]。 この間、1951年(昭和26年)10月に新倉村の合併による大和町の発足を受けて「大和町駅」(やまとまちえき)に改称された。 都営地下鉄・東急電鉄との相互乗り入れ計画こうした利用者の増加に対応して輸送力増強を行うため、1964年(昭和39年)1月には当駅と東京都板橋区志村の間に東武東上支線(1969年に板橋区の住居表示実施により高島平の町名が発足してからは仮称・東武高島平線)を建設する計画が立てられた[12]。この計画には東武東上本線と都営地下鉄6号線(現・三田線)、および東京急行電鉄(現・東急)田園都市線(現・大井町線)・池上線において相互直通運転を行う内容が盛り込まれていた。 しかし、東京都交通局が1968年(昭和43年)12月27日に巣鴨 - 志村(現・高島平)間を開通させた後、東武鉄道は6号線計画について、都心へ向けて大きく迂回するルートであること、および池袋駅を経由しないために、東武百貨店をはじめとした池袋地区の開発に資さず、東上本線にとっての線増効果が見込めないことを理由として、都交通局に相互乗り入れ計画撤回を申し入れた[12]。都交通局側は難色を示したが、1972年(昭和47年)3月1日に都市交通審議会が運輸大臣に提出した都市交通審議会答申第15号において、東京6号線建設予定計画が「高島平 - 戸田市西部 - 浦和市西部…大宮市西部」に変更されたことにより、当駅 - 高島平間4.8kmの東武高島平線計画は正式に撤回された[8][注釈 4]。高島平駅が2面4線のホームとなっているのは、この計画の名残りである。東武鉄道が保有していた同線免許のうち、高島平駅 - 三園町駅間1.5kmについては1973年(昭和48年)4月に都交通局へ譲渡され、都営地下鉄6号線高島平 - 西高島平間として1976年(昭和51年)5月に開通した。 この間、1970年(昭和45年)12月に市制施行・新市名制定を受けて、「和光市駅」に改称された。 営団地下鉄との相互乗り入れ一方、1969年(昭和44年)1月に帝都高速度交通営団が営団地下鉄8号線(現・有楽町線)の車庫を「米軍新倉倉庫」跡地の一部に設置し、そのための引込線を東武東上本線に沿って建設する構想で用地の取得を申し入れた[8]。同線の建設計画は、1968年(昭和43年)10月に営団が免許を取得した時点では「明石町(現・新富町駅)- 永田町駅 - 飯田橋駅 - 池袋駅 - 成増駅」とされており、当駅への乗り入れは含まれていなかった[8]。 1970年(昭和45年)4月10日に営団が当時の大和町当局に示した当初の構想では、東上本線に沿う形で高架線を建設し、駅を開設せず旅客扱いを行わないものであった[8]。そのため町当局が反発し、旅客扱いや車庫地下化など7項目の要求を行い、受け入れられない場合には車庫の建設を認めないと表明した[8]。 その後1975年(昭和50年)10月に営団が当駅から渋谷駅までの路線(第13号線)の建設許可を申請し、1976年(昭和51年)8月11日に運輸大臣から営団に事業免許が交付され、1978年(昭和53年)7月11日には第8号線(現・有楽町線)の建設許可も交付された[8]。これを受けて和光市も地下鉄乗り入れに伴う駅周辺の整備事業に乗り出し、渋滞解消のための立体交差や土地区画整理などの調整を始めた[8]。立体交差化について、当初は高さ4.5mの地下道を建設することが構想されたものの、商店街への影響を避けるため、鉄道側を1.85m嵩上げすることで地下道の高さを維持したままで深さを抑制する計画へ変更され、1985年(昭和60年)8月5日に地下市道が開通した[8]。 さらに新線建設や乗り入れに向けた駅の改築工事などを進め、1987年(昭和62年)8月25日に有楽町線が営団成増駅(現・地下鉄成増駅)から当駅まで延伸開業し、相互直通運転が始められた[8]。 その後、2008年(平成20年)6月14日に副都心線が全線開通して、当駅から東武東上本線との相互直通運転が始まり[13]、2013年(平成25年)3月16日に渋谷駅地下ホームが完成したことにより、副都心線を経由して東急東横線との間の相互直通運転も始まった[14]。 年表
駅構造南口のみで営業していたが、営団地下鉄の乗り入れに合わせた改良工事で路盤全体を嵩上げして半高架化し、北口の開設や地下市道の建設と合わせた立体交差による踏切の廃止などが行われた[8]。 和光市のウェブサイト「まちの景観変遷」に掲載された画像が示す通り、有楽町線開業以前は島式ホーム1面2線で、現上りホームの位置にホームがあり、駅舎は現在の南口側、現下りホームの場所にあった。改築に伴い、駅本屋および改札口は池袋寄りに移動した。 島式ホーム2面4線を有する高架駅[4]。半高架式。ホーム直下に改札口があり、改札からは階段(スロープあり)を上って駅舎外に出る構造となっている。池袋方階段に上りエスカレーターが設置されている[4]。駅売店は改札外の自動券売機横にある[4]。 有楽町線の延伸開業に併せて大改良を行った際に、いち早く身体障害者対応のエレベーターを設置した。しかし、設置位置の関係から出口は改札外となっていたことから、係員の付き添いがないと利用することができなかったが、改札内にエレベーターの設置工事を施工し、2005年10月から使用を開始した[28]。 当駅 - 志木駅間は、東上本線内で唯一の複々線区間である。朝霞駅側に有楽町線・副都心線列車の引き上げ線が2線あり、線路はその先の和光検車区に続いている。 有楽町線・副都心線には当駅発着列車が設定されているのに対して、東上本線の当駅発着列車は配線の関係上設定されていない。地下鉄線内の当駅発着は平日日中および土日祝日でも1時間に10本あり(うち4本が東上本線直通)、ラッシュ時やダイヤが乱れた場合を中心にB線で当駅から列車が数珠繋ぎになる場合がある。
のりば
(出典:東京メトロ:構内図) 備考
構内放送3番線(有楽町線・副都心線のりば)では有楽町線開通当初から、それ以外では朝ラッシュ時のみ4番線で発車ベルが使用されていた。 2007年4月5日に東上線ホーム(1・2・4番線)に、東武の汎用発車メロディが導入された[注釈 8]。3番線には2012年7月7日のホームドア稼働開始と同時にスイッチ制作の発車メロディ「きらめくホーム」(福嶋尚哉作曲)が導入されたが、同年12月17日に再びベルに戻された[注釈 9]。その後、2023年10月24日に東武の汎用発車メロディに変更され、再びすべてのホームでメロディが流れるようになった。 駅構内設備
利用状況1日平均の乗降人員は以下の通りである。数値は、東武鉄道⇔東京メトロとの直通連絡人員を含んでおり、実際の駅自体の利用者数はこれよりも少ない。
近年の1日平均乗降人員の推移は下記の通り。
駅周辺南口当駅の中心的な出口である南口は、区画整理が完了したことに伴い、南口を中心に多くの商業ビル、銀行などが立地するようになった。 前述のように駅の南側にはかつて軍の施設や軍需工場があったことからまとまった土地があり、その跡地に理化学研究所や本田技術研究所などの国や民間の施設が立地した。そのため南口からは多くの研究所方面行きのバスが発着している。 官公庁・公共施設
商業施設
郵便局・金融機関研究機関・学校
団地
軍事施設過去にあった軍事施設
その他北口北口駅前周辺は、道路が狭く住宅が密集しているなど多くの問題を抱えていることから、和光市では2008年度から北口土地区画整理事業を進めている。今後、新たに駅前交通広場を設け商業系・住居系土地利用の増進、道路や公園などの整備を行っていく予定である[35]。 バス路線北口と南口に和光市駅停留所があり、以下の路線バスが発着する。一般路線バスは東武バスウエストと西武バス、空港連絡バスは西武バス・東京空港交通・京成バス・東武バスウエストにより運行されている。南口は研究所方面行きのバスが多く発着する。国際興業バスも池袋駅西口発深夜急行バスが南口に乗り入れている。 南口発着
北口発着全て東武バスウエストの運行。
北口にはターンテーブルが設けてある。 付記
隣の駅
脚注注釈
出典
利用状況
関連項目外部リンク
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