坪井杜国
坪井 杜国(つぼい とこく、生年不詳 - 元禄3年3月20日(1690年4月28日)[1])は、尾張国の俳人。庄兵衛・万菊丸・岩菊丸とも称した[2]。屋号は壺屋[2]。俳号として野人[2]。 人物尾張国名古屋城下、御園町(現名古屋市中区)において米屋を営む家に生まれた[3]。坪井家は当町において町代を務める名家であった[3]。 松尾芭蕉の弟子であり、貞享元年(1684年)に『冬の日』を編んだ[2]。 貞享2年、手形で空米を売った咎で死罪となったが、徳川光友に恩赦を賜い、三河国渥美郡畠村に追放となった[2]。後に保美に移る[2]。貞享4年に慰めに芭蕉が越人を連れ、当地を訪ねている[2]。 また、1960年(昭和35年)には屋敷跡に石碑が建立され、1988年には杜国公園として整備されている[4]。 杜国が伝えた蕉風の俳諧は、杜国の家僕家田与八郎の孫、家田路喬の時代になって盛んになり、その門下に原子蔵ら多くの弟子らが輩出した。 杜国の墓所のある潮音寺では、毎年4月ごろ、杜国を偲ぶ追善供養とともに、俳人杜國顕彰会の主催する俳句大会の表彰式を行っている[5]。 主な句
師である松尾芭蕉が、弟子の越人と杜国の住む保美(現愛知県田原市保美町)に来たときに詠んだ歌である[6]。 その他に
など。 ギャラリー脚注参考文献
外部リンク
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