宝井馬琴宝井 馬琴(たからい ばきん)は、講談師の名跡。寶井 馬琴とも表記。三代目までは東流斎。現在は空き名跡。
4代目本名:小金井 三次郎(こがねい さんじろう)、1853年2月4日(嘉永5年12月26日) - 1928年(昭和3年)12月27日。享年76。
5代目
五代目 宝井 馬琴(1903年11月9日 - 1985年10月26日)は、講談師。本名:大岩 喜三郎。 経歴1925年に四代目宝井馬琴に入門し宝井琴桜を名乗る。その後宝井琴鶴に改名。 1930年に異例の早さで真打昇進。1934年1月、五代目宝井馬琴を襲名。 1972年に文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞。1978年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。 1985年10月26日死去。墓所は文京区吉祥寺。戒名は「文徳院一公琴談居士」。 芸歴受賞歴人物若いときは二代目大島伯鶴の影響を受けた。 1950年、53年、56年(自民党)と参院選の全国区に立候補し落選[2][3][4][注 1]。 1971年には天皇の古希を祝い、皇居内で皇族方に口演した。天皇は馬に関心があることより「寛永三馬術 曲垣平九郎 愛宕山出世の春駒」を演じた[5]。 1968年講談協会を設立し会長に就任、1970年に脱退するまで務める。その後講談協会分裂から1974年東京講談会会長、1977年再度脱退を経て、1980年再合同により講談協会会長となる。三遊亭圓生、林家正蔵の没後は明治生まれの重鎮として現役で活躍した[6]。1984年10月新宿末広亭での「寛永三馬術」が最後の高座。 独特の口調から「糞詰まり」という悪口があった。 弟子移籍系図
家族同時期に活躍した講釈師である五代目一龍斎貞丈とその弟の初代山遊亭金太郎は従兄弟に当たる。 逸話漫画家の長谷川町子が倉庫として使っていた文京区千駄木団子坂の土地を「方位が良い」という理由で頼み込んで譲り受け、総檜づくりの「馬琴ガム宮殿」(バッキンガム宮殿のもじり)とも呼ばれた豪邸を建てた[7]。その後、馬琴が御前口演をするほど活躍したことについて、長谷川は著書『サザエさんうちあけ話』で「易も当たるんですね」と書き残している[8]。 著書
6代目
六代目 宝井 馬琴(たからい ばきん、1935年(昭和10年)9月13日 - 2015年(平成27年)9月25日[9])は、日本の講談師。静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身。本名∶山梨 務。 経歴静岡県立清水東高校卒業後[10]、1959年、明治大学文学部英米文学科を卒業。学生時代にはラジオ東京の「しろうと寄席」に出演経験がある。 大学卒業と同時に五代目宝井馬琴に入門。三代目琴調を名乗る。1966年、真打に昇進し、四代目琴鶴に改名。 1976年と1984年には、文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞。1987年、六代目宝井馬琴を襲名。 1980年、放送演芸大賞講談部門賞受賞。1988年、浅草芸能大賞奨励賞受賞。1991年、文化庁芸術祭賞受賞。1998年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年、紫綬褒章受章。また、2006年から10年まで講談協会会長などの要職を歴任した。 2015年9月25日、前立腺がんのため死去[11]。80歳没。 人物「埼玉英傑伝」「いま甦る名将のはなし」などの著書がある。 ゲーム「ジャンピングフラッシュ!」のナレーションを担当した。 1982年から1986年までNHK-FMで放送された、ロックミュージシャンの半生を講談調で語る異色番組「ロック講談」(作・構成 大伴良則)の講談を担当した。 芸歴著書
弟子脚注注釈
出典
外部リンク
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