小室直樹
小室 直樹(こむろ なおき、1932年〈昭和7年〉9月9日 - 2010年〈平成22年〉9月4日[1])は、日本の社会学者、経済学者、批評家、社会・政治・国際問題評論家。 学位は法学博士(東京大学・1974年[2])。東京工業大学世界文明センター特任教授、現代政治研究所(東京都千代田区)所長などを歴任。 社会学、数学、経済学、心理学、政治学、宗教学、法学などの多分野を第一人者から直接学び、「社会科学の統合」に取り組んだ[3]。東京大学の伝説の自主ゼミナール「小室ゼミ」主宰者。著書に『ソビエト帝国の崩壊』や『痛快!憲法学』などがある。 生涯出生名爲田直樹として東京府荏原郡玉川村[4](現・東京都世田谷区奥沢)に生まれる[5]。私生児であった[5]。妹の誕生日が1933年3月16日であることから、村上篤直は直樹の本当の誕生日を1932年5月以前、ひょっとすると1931年だったかもしれないと推測している[5]。 1937年、5歳の時に同盟通信の記者であった父が死去し、母の故郷である福島県河沼郡会津柳津村(現会津柳津町)に転居する[6]。典型的な軍国少年で、日本の敗戦の知らせを聞いたときの悔しさが学問を志す原体験と自身が述べている[7]。母子家庭ということで幼少時の生活はかなり苦しかった[8]。 理学部から経済学へ福島県立会津高等学校入学。数学、物理などの学力は高校教師を凌ぐほどであり[9]、後に政治家となる渡部恒三、弁護士の渡部喬一(第二東京弁護士会所属)と知り合う。会津高校時代は昼食の弁当を用意できず、昼休みになるといつも教室から姿を消していた[8]。ある時それを知った渡部恒三が、自分の下宿に頼んで弁当を2個用意してもらうように手配し、以後は昼食にありつけるようになった[8]。 会津高校在学中に湯川秀樹博士のノーベル賞受賞を知ると、日本がアメリカ合衆国を打ち倒し、世界から尊敬される国になるための研究ができると思い、京都大学理学部を志望[7]。1951年に福島県立会津高等学校を卒業し、京都大学理学部に入学した。東京大学理学部に進むことも考えていたが、進学適性検査の結果が芳しくなかったため足切りされた[10]。 京大受験の際には、渡部恒三の父の友人から京都までの往復の旅費を援助してもらったが、京都滞在中の費用がかさみ帰途の交通費が無くなってしまった(渡部恒三曰く「合格して嬉しくなり、有り金を全部飲んでしまったんだろう」とのこと)。支援者の手前、追加の金を無心するわけにも行かず、小室はやむなく京都から福島まで徒歩で帰ってきたという[8]。 京大では物理学科志望だったが成績上の理由で数学科に進み[11]、位相幾何学を専攻する[12]。しかし小室が京大に入学した時には、既に湯川は研究の第一線を退いていた[7]。小室は失意の日々を送るが[7]、ジョン・ヒックスの『価値と資本』の解説を書いていた市村真一の論文を読んで、理論物理学のようなエレガントさに魅了されて、理論経済学に興味を持つに至る[7]。 1955年、京大を卒業し、大阪大学大学院経済学研究科に進学。当時高田保馬が森嶋通夫、安井琢磨、二階堂副包ら日本のトップレベルの経済学者を大阪大学社会経済研究所に集め、阪大ゴールデン時代とまで呼ばれており、小室曰く「正当な学問」を身につけた。市村真一を指導教官とし、市村の家に泊まり指導を受け、高田、森嶋、安井、二階堂らの下で理論経済学の研究を始める。小室は、レオン・ワルラスの一般均衡理論によって初めて経済学が単なる思想ではなく科学として成立し、この「正当な学問」としての経済学を日本に正しく紹介したのは高田であるとする。高田は「私が一生かかっても十分に理解できない学者が二人いる。ケインズとヴェーバーだ」と告白しており、小室は高田が2人の理論・学説研究に道筋をつけたと述べている[13]。 1958年、阪大大学院博士課程に進学。森嶋から、小室ともう一人の特別優秀な院生だけが選ばれ、大域的安定性の収束過程について特別の指導を受けた[14]。 アメリカ留学1959年、阪大大学院を中退したが、市村の推薦で、第2回フルブライト留学生として経済学の本場アメリカのミシガン大学大学院に留学。ダニエル・スーツから計量経済学を学び、さらに奨学金を得て研究を続けた。1960年、マサチューセッツ工科大学大学院で、ポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ハーバード大学大学院ではケネス・アロー、チャリング・クープマンスらから経済学を学ぶ[15]。しかし、研究を進めるに連れて、ヒックス、サミュエルソン、アローなどにより理論経済学の研究は完成されてしまったと考え、社会学と政治学の理論化を研究しようと決意する。そのためには、当時実証科学の条件を満たしていた心理学を学ぶことが社会学や政治学の理論化に有益であると考えた。翌1961年、再びハーバード大でバラス・スキナー博士から心理学(行動主義心理学)、タルコット・パーソンズ博士から社会学、ジョージ・ホーマンズ教授から社会心理学など学問の分野を超えて社会科学を学んだ[15]。 フルブライト留学生の限度が3年だったため、1962年、帰国。しかし、経済学から転向することを告げると市村から破門された[16]。 1963年、東京大学大学院法学政治学研究科に進学。丸山眞男が指導教官となり政治学を学ぶが、小室が心理学ばかり勉強しているので、丸山の弟子の京極純一に預けられた。その他にも、東大のゼミナールを渡り歩き、中根千枝から社会人類学を、篠原一から計量政治学を、川島武宜から法社会学をそれぞれ学ぶ。 1965年には、高田保馬の『社会学概論』(岩波書店)の解説を書いた富永健一から社会学を学ぶ。富永の紹介で社会学の雑誌に立て続けに一連の論文を発表し、論文「構造機能分析と均衡分析」では行動主義心理学を社会学に応用したパーソンズの構造機能分析を日本で他に先駆けて発表した。 自主ゼミ1967年から、ボランティアで所属・年齢・専攻を問わない自主ゼミ(小室ゼミ)を開講し、経済学を筆頭に、法社会学、比較宗教学、線型代数学、統計学、抽象代数学、解析学などを幅広く無償で教授していた。小室ゼミ出身者には橋爪大三郎・宮台真司・副島隆彦・盛山和夫・志田基与師・今田高俊・山田昌弘・大澤真幸らがいる[17][18]。以後、橋爪、宮台、副島、大澤らは小室を学問上の師匠として深く尊敬することになる。橋爪と副島と宮台は一般向けの書籍や雑誌で人々の目にふれることが多くなりそれぞれが一定のファン層を獲得して「小室三兄弟」とも呼ばれた[注釈 1]。この伝説のゼミ運営に最も貢献したのが、10年にわたって活躍した橋爪大三郎であった(このゼミに関しては村上篤直『評伝 小室直樹』に詳しい)。 1970年、大塚久雄の近所に引越し、直接マックス・ヴェーバーについて学びながら、宗教についての研究を始める。後掲「社会科学における行動理論の展開」で城戸浩太郎賞受賞。1972年、東京大学から「衆議院選挙区の特性分析」で法学博士の学位を取得し、東京大学非常勤講師に就任。 著述活動の成功1976年、日本研究賞を受賞した論文「危機の構造」と、いくつかの雑誌に発表した論文をまとめ、加筆した最初の単著『危機の構造』(ダイヤモンド社)刊行。
1979年12月、それまで清貧な学究生活を送っていた小室は、自宅アパートで研究に没頭し栄養失調で倒れているところを門下生に発見され病院に運ばれた。しばらく入院し身体は回復したが自身で入院費用が払えず、友人知人のカンパで費用を支払い、小室の才能を知る友人の渡部喬一弁護士や山本七平などの勧めで本を出版することにし[19]、光文社の用意したホテルにて『ソビエト帝国の崩壊』の執筆にとりかかった[20]。小室の奇行ぶりには、担当者も少々辟易したようであるが[20]、出来上がった原稿は想像以上の価値があった[20]。1980年、光文社から初の一般向け著作である『ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく』(光文社カッパ、のち文庫)が刊行されベストセラーになり、評論家として認知されるようになる。この本の中で小室は、ソ連における官僚制、マルクス主義が宗教であり、ユダヤ教に非常に似ていること、1956年のスターリン批判によってソ連国民が急性アノミー(無規制状態)に陥ったことなどをこれまでの学問研究を踏まえて指摘し、またスイスの民間防衛に倣い日本も民間防衛を周知させることなどを訴えた。そしてこの本の「予言」通り、1991年にソビエト連邦の崩壊となる。 『ソビエト帝国の崩壊』の出版から続編『ソビエト帝国の最期 “予定調和説”の恐るべき真実』(1984年、光文社)など十数年間にわたって光文社のカッパビジネス、カッパブックスより27冊の著作が刊行され、光文社にとって小室の著作群はドル箱になった。光文社以外にも徳間書店、文藝春秋、祥伝社などから著作を刊行、こうした著作活動の成功により経済的安定を得ることができた。ベストセラーを書くまでの主な収入は家庭教師で、受験生のほか、大学の研究者(教授など)まで教えていた[21]。 テレビ生放送での発言事件1983年1月26日、ロッキード事件被告田中角栄への求刑公判の日、テレビ朝日の番組「こんにちは2時」の生放送にゲスト出演した[22]。小室は田中角栄の無罪を主張し、田中角栄を優秀な政治家と評価していた。番組で小沢遼子ら反角栄側2人と小室による討論を行った。ところが冒頭、突然立ち上がってこぶしをふり上げ、「田中がこんなになったのは検察が悪いからだ。有能な政治家を消しさろうとする検事をぶっ殺してやりたい。田中を起訴した検察官は全員死刑だ!」とわめき出し、田中批判を繰り広げた小沢遼子を足蹴にしてスタッフに退場させられた[22][23]。ところが翌日朝、同局はその小室を「モーニングショー」に生出演させた[22]。その際さらに口調はパワーアップ、カメラの面前で「政治家は賄賂を取ってもよいし、汚職をしてもよい。それで国民が豊かになればよい。政治家の道義と小市民的な道義はちがう。政治家に小市民的な道義を求めることは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は自分の奥さんを殺したって何でもなかった!」などと叫び、そのまま放送されてしまった[22][24]。この事件以後、奇人評論家と評されることになった。 テレビでの小室の発言は新聞や雑誌などで取り上げられ、新聞の投書欄にも一般の人から意見が寄せられた。それらの多くは小室を奇矯な発言をする人物として非難していた。当時毎日新聞に連載されていた加藤芳郎の『まっぴら君』にも小室事件をモチーフにしたものが登場し、道端で小室らしき人物が、「検事を殺せ」「田中に一兆円やれ」などと叫んでいると、聞いている一人が「わーい、一理ある」と拍手を送っているのを見てまっぴら君らが、「例の評論家ですか」「サクラだよ」と話をする内容であった。 晩年2006年秋、副センター長を務める弟子の橋爪大三郎に招聘されて東京工業大学世界文明センター特任教授に着任。4年余りであったが終生の仕事とする。 2010年9月4日、心不全のため東京大学医学部附属病院で死去した。77歳没。9月9日に葬儀を終えた[25]が公式に発表されず、翌9月10日に副島隆彦が自らの公式ウェブサイトの掲示板に投稿し、すでに葬儀を終えたとする小室の訃報を同投稿の前日の9日に受けた旨の記述を行った[26]。9月28日になり東京工業大学が死去を発表し[25]、これを受けて広く報道された。 2022年11月9日、有志によって母の故郷である会津柳津の圓蔵寺奥の院に納骨される。 学説・思想一般理論論文「社会動学の一般理論構築の試み」を発表すると、この論文が川島武宜の目に止まり、川島編集の後掲『法社会学講座』の編集協力・執筆に富永と共に加わることとなった。『法社会学講座』は、日本を代表する教授・助教授が執筆者として名を連ねているが、当時無名であった小室の経歴だけが「京大卒」とのみ書かれており、異例の大抜擢であった。その論文の内容は、理論経済学を社会学に応用しようとする、ホマンズの社会行動論を踏まえながら、ワルラスの一般均衡理論を構造機能分析を利用して法社会学に応用し、自身が提唱した「規範動学モデル」によって、日本とは全く社会的な条件が異なる西欧社会の法体系を日本に導入した場合、全く同じ条文でも、母法の国と継受国では全く異なる機能を果たすことがある現象の分析が可能になるとするものである[27]。これにより小室の学説の一般理論は一通り完成するが、その特徴は、スキナー、ホマンズ、パーソンズらから学んだ「正当な学問」を分野を超えて統合した点にあるといえ、以後その一般理論によって現実の社会現象を分析し、これを予測するという応用の研究を始める。『ソビエト帝国の崩壊』は、正にその構造機能分析を応用し、予言を的中させたものであるとされる[28]。 近代資本主義研究小室は、人類学の研究を進めていくにつれ、その研究対象が様々な未開社会の親族構造の研究にとどまっていることに不満を持ち、近代資本主義の解明のためには、ヴェーバーを学ぶ必要があると考えるようになり、大塚久雄から直接指導を受ける。そして、西欧において近代資本主義が発達したのは、宗教改革によって西欧社会のエートスが変化し、プロテスタントが禁欲的労働というエートスを得たからであり、このことから社会における「構造」が絶対不変のものではなく、変化し得るとのアイデアを得る。そして、このアイデアを構造機能分析に応用して、日本において資本主義が定着していったのは、西欧と日本は同じ禁欲的労働というエートスをもっているからであり、その日本における象徴が二宮尊徳であるとする。その後、小室は、西欧における近代資本主義と日本の資本主義の違いについて研究するため、山本七平の知遇を得て、日本独自の宗教ともいうべき「日本教」、天皇の研究を始め、これが西欧の古典だけでなく、中国や朝鮮の古典、儒教、官僚制の研究に繋がっていく。 小室は、自身の応用研究をさらに深め、近代資本主義が成立するためには絶対性と抽象性を特徴とする近代的所有権が制度として確立されていることが必要であるとの川島武宜の学説を承継した上で、これを経済学の研究と結びつけてセイの法則が機能を停止し、自由放任が資源の最適分配を行い得なくなった現代社会では近代的所有権の概念は修正されざるを得ないとして発展させた。 小室は、大塚久雄から「川島先生の法社会学を完成させることができるのは小室さんだけだ。完成させてよ」との遺言を預かるが[29]、小室は「遂げられなかった」とした。 ソ連崩壊『ソビエト帝国の崩壊』で、ソビエト連邦の崩壊とその過程を10年以上も前から予言していた。後の『ソビエト帝国の最期』(1984年)には富永の推薦文があり、小室を天才だと評し、「しばらくしたら再びアカデミズムの世界に戻ってくるように」とまで書いている。 田中角栄論1976年のロッキード事件では渡部昇一らと共に田中角栄の無罪を主張した。その論拠は、刑事免責を付与して得られた嘱託証人尋問調書は、反対尋問権を保障した憲法に反するという点にあった。後に最高裁は、この論点には触れず、刑事免責に関する立法の欠如を理由に、嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定したが、その点を考慮しても他の関係証拠によって犯罪事実は認定できるとした。なお、この最高裁判決には、反対尋問の機会を一切否定する嘱託証人尋問調書は、刑事訴訟法1条の精神に反し証拠能力が否定されるとする補足意見がある。このように田中角栄を徹底して擁護した小室であるが、藤原弘達の創価学会批判の書の差し止め問題が起きたときは、公明党の差し止め要求を受け入れようとした田中を批判しており、田中への評価は公平を期したものだったといえる。[独自研究?] 戦争・歴史左右の政治対立図式では保守系に分類されることが多い。渡部昇一や西尾幹二、日下公人らとの対談本も多く刊行しており、また熱心な改憲論者であった。しかしそうした反面、政治学方面での師匠であった(戦後左派の教祖的存在である)丸山眞男を生涯尊敬するなどの面もあって、かならずしもまったくの保守主義陣営の論者だったというわけではない(横田喜三郎のことは戦後最悪の犯罪的学者として罵倒している[要出典])。 大東亜戦争については、善悪論や事実論で論じるよりも、日本陸軍が指導者個人の意思を離れて、組織として独立して歯止めがきかなくなっていったという理論を中心に提唱しているが、これは丸山の政治論と山本七平の日本文化論を折衷したものである。また、戦時国際法を加味しない哲学的視点で「かくて捏造したのが「南京大虐殺」です」と語っている[30]。 人物
伝記
論文・著書・共著著作数は、単著は約60冊(著作内容が同じかほぼ改題同一である再刊版はカウントしない)。共著書は10数冊、新版再刊も生前、没後共に各10数冊ある。 1966年 1967年
1968年
1969年
1972年
1974年 1976年 1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年 1999年
2000年
2001年
2002年 2003年
2004年
2007年
脚注注釈出典
外部リンク |