小川又次
小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8月22日) - 明治42年(1909年)10月20日)は、明治時代の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。幼名、助太郎。諱は長利。 経歴小倉藩士・小川兼宣の長男[1]。幼名は助太郎[1]。江川塾で学んだ後、小倉藩士として長州征討に出征した[1]。 明治3年(1870年)7月、兵学寮生徒となる。明治4年(1871年)1月、権曹長心得となり、少尉心得を経て、明治5年(1872年)2月に少尉に昇進。1874年(明治7年)4月、台湾征討軍に従軍。1875年(明治8年)1月、東京鎮台歩兵第1連隊付となる。1876年(明治9年)4月、歩兵第13連隊大隊長に就任し、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征。同年4月に戦傷を受け、同月、少佐に昇進。 1878年(明治11年)3月、熊本鎮台参謀副長となり、参謀本部管西局員に異動。1880年(明治13年)4月から7月まで清国に派遣された。1881年(明治14年)2月、中佐に進級し大阪鎮台参謀長に就任。1882年(明治15年)3月、広島鎮台参謀長に転じ、1884年(明治17年)10月、大佐に進級し歩兵第8連隊長に着任。1885年(明治18年)5月、参謀本部管西局長に転じ、同年7月、同第2局長に就任。この年、日本陸軍大学校で教官クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルの講義を児玉源太郎とともに聴講し、メッケルから「児玉、小川が優秀」と言われるほどであった。また小川は作戦立案能力に長けていたため、川上操六から上杉謙信になぞらえて「今謙信」と評価された。1887年、中国征服を目指す大陸政策の一部として、清国征討策案をまとめた。 1890年(明治23年)6月、陸軍少将に昇進し歩兵第4旅団長となる。近衛歩兵第1旅団長を経て、1894年(明治27年)8月、第1軍参謀長として日清戦争に出征。1895年(明治28年)8月20日、西南戦争・日清戦争の軍功により男爵に叙せられる。1896年(明治29年)1月、近衛歩兵第2旅団長に転じ、1897年(明治30年)4月8日、陸軍中将に進み第4師団長となる。1903年(明治36年)5月16日、勲一等瑞宝章を受章。日露戦争では第4師団を率いて、南山の戦いでは敵左翼への集中攻撃を進言し攻略の糸口を作った。1904年(明治37年)8月、遼陽会戦で負傷し、師団長を辞し帰国。翌年1月15日に陸軍大将となるが、12月14日に休職となった[2]。1907年(明治40年)9月21日、子爵に進むとともに功二級金鵄勲章を受けた。同年11月13日、予備役編入となる[3]。 1909年10月20日、赤痢で入院のところ急性腹膜炎を併発し62歳で没し[4]、正二位に叙された。 栄典
親族脚注
文献
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